Serowは、その後もゲームセンターに通っていた。
もともと来る場所ではあった。
音が好きで、機械が好きで、入力と反応のあいだにある構造を見るのが好きだった。
だから通う理由自体は、前から変わっていない。
変わったのは、その場所に“見る対象”がひとつ増えたことだった。
Shadow。
名前が本名ではないことくらい、最初から分かっている。
口数が少ないことも、必要以上に近づかれるのを嫌うことも、少し見ていれば分かる。
でも、それ以上にSerowが引っかかったのは、あの人が「もう離れたはずのもの」を、
身体のどこかに残したまま立っていることだった。
ゲームはうまい。
正確だ。
無駄が少ない。
だが、ときどきそこに、ゲームのためだけではない揺れが混じる。
筐体の前に立っているのに、その一瞬だけ、別の場所で別の音を鳴らしていた人間みたいになる。
それが何なのか、Serowはまだ言葉にできない。
けれど、気になって仕方がなかった。
ーーー
その日はSerowの方が先に来ていた。
いつものフロア。
眩しい照明。
電子音の重なり。
空調の乾いた風。
磨耗したパネル。
画面越しに繰り返される、同じようで少しずつ違う反応。
Serowは筐体に向かう前に、一度だけ店内を見た。
探しているつもりはない。
でも、いないと分かると少しだけ手持ち無沙汰になる。
自分でも変だと思う。
相手は別に、何かを教えてくれるわけでもない。
親切でもない。
愛想もない。
褒める時だって、褒めているのか削っているのか分からない言い方しかしない。
それでも、あの人に一言言われたあと、自分のプレイの聴こえ方が少し変わった。
走る。
戻し方。
均す。
呼吸。
ゲームの話をしているのに、音楽の入口にいるみたいな言葉ばかり残る。
それが妙に引っかかって、離れない。
Serowがコインを入れようとした時だった。
「早いな」
振り向くと、Shadowがいた。
黒い服。
無愛想な立ち方。
けれど前回までより、ほんの少しだけ“ここにいて当然”みたいな顔をしている。
それだけで、Serowは少しだけ気持ちが軽くなる。
「そっちも」
「今日はたまたま」
「便利ですね、その言葉」
「お前が使ってたやつだろ」
そう言われて、Serowは笑う。
Shadowは笑わない。
でも、前より空気が硬くない。
ーーー
その夜は、珍しく二人ともすぐにはプレイしなかった。
空いている筐体はある。
並ぶ必要もない。
なのに何となく、横に立っている。
Serowが画面のデモを見ながら言う。
「こういうのって、見てるとだんだん、何を遊んでるのか分からなくなりません?」
「どういう意味だ」
「ゲームなのか、音なのか、手の運動なのか」
Shadowは少しだけ考えてから答えた。
「全部だろ」
「やっぱりそうですよね」
「分ける必要あるのか」
「ないかもです。でも、たまにどこが一番大事なのかなって」
Shadowは腕を組んだまま、筐体のレーンを見る。
流れてくるノーツは、誰かが設計した線だ。
叩く場所。
叩く順番。
詰まる位置。
抜く位置。
乗せる場所。
走る罠。
戻す余地。
譜面にも性格がある。
それは確かだ。
「身体じゃないか」
Shadowが言う。
「最初は」
Serowが顔を上げる。
「最初?」
「頭で追うと遅い。
音か画面かは人によるけど、結局、最初に掴むのは身体だろ」
その言葉に、Serowは妙に納得して黙った。
たしかにそうだった。
自分は譜面を理解してから動くのではない。
見えた流れに対して、先に身体が“いける”か“無理か”を判断している。
そのあとでようやく、指とか手首とか、理屈が追いつく。
「……それって、楽器もそうですか」
Serowは、ごく自然なふりで訊いた。
Shadowの視線が、わずかにこちらへ向く。
「何でそう思う」
「なんとなく」
「便利な言葉だな」
「そっちも使いました」
少しだけ間。
それからShadowは、面倒そうに息を吐いた。
「そうだよ」
短い返答。
でも、その一言はSerowにとって十分だった。
[T4: 初めての“そうだよ”]
それまでShadowは、過去についてほとんど言わなかった。
昔、少し。
それだけ。
曖昧に濁して、終わらせる。
なのに今は、“そうだよ”と肯定した。
たったそれだけのことなのに、Serowの中ではかなり大きかった。
「何をやってたんですか」
訊いた瞬間、少し早かったかもしれないと思う。
でも、もう遅い。
Shadowはすぐには答えなかった。
嫌なら無視される。
そのくらいの覚悟はしていた。
やがて、低い声が返る。
「ドラム」
「……やっぱり」
思わず漏れた声に、Shadowが眉を寄せる。
「何がやっぱりだ」
「叩き方、違うから。ゲームなのに」
Shadowは少しだけ視線を逸らした。
褒められたわけでもないのに、そういう反応をするのが少し意外だった。
「昔の癖が残ってるだけだ」
「でも残るってことは、大きかったんですよね」
「……お前、すぐそうやって奥まで見るな」
「見えてしまうので」
Serowはそう言ってから、少しだけ困ったように笑う。
自分でも、そこは昔から面倒だと思っている。
機械を見る時も、人の手元を見る時も、表面だけで終わらない。
どうしてそうなるのか、その奥に何があるのか、つい気になってしまう。
Shadowはそれを否定しなかった。
否定しないかわりに、少しだけ話をずらす。
「お前は」
「はい」
「何もやってないって言ってたな」
「はい」
「じゃあ、何でそんなに見る」
その問いは、Serow自身もたまに自分へ向けるものだった。
ーーー
「たぶん」
Serowは少し考えてから言う。
「自分がまだ触ってないからだと思います」
「は?」
「やってないものって、逆にすごく気になるんです。
どういう感覚なのか、自分の手で触ったら何が起きるのか」
Shadowは黙っている。
だからSerowは、少しずつ言葉を続けた。
「ずっと見る側だったんです。
ゲームも、機材も、音も。
もちろん遊ぶし触るけど、ちゃんと“鳴らす側”ではなかったというか」
「……」
「でも最近、たまに思うんです。
見てるだけだと、分からないまま終わるものがあるなって」
それは、前回の“呼吸”の一件から、ずっと自分の中に残っていた感覚だった。
Shadowのプレイを見た時。
ゲームの入力のはずなのに、そこに身体の残り香みたいなものがあった。
ただ正確なだけじゃない。
昔、どこかで本当に鳴らしていた人の叩き方だった。
その時、Serowは少しだけ思ったのだ。
ああ、画面越しに見ているだけでは、ここまでは分からないのかもしれない、と。
ーーー
「じゃあ、やればいいだろ」
あまりにもあっさりShadowが言うので、Serowは一瞬、聞き返しそうになった。
「……そんな簡単に」
「簡単じゃないなら、なおさらやるしかない」
「いや、でも何を」
「何でも」
Shadowの返答は雑だった。
雑だが、変に飾らない分だけ刺さる。
Serowは思わず苦笑する。
「何でもって」
「お前が今いちばん身体で気になるやつ」
「そんな選び方でいいんですか」
「最初はそれでいい。
理屈から入ると止まるだろ」
その言葉に、Serowは少しだけ黙った。
止まる。
たしかにそうだ。
機材でも、構造でも、仕様でも、自分は理解しようとしすぎる。
そのせいで入り口を逃すことがある。
けれど今、Shadowが言っているのは逆だった。
先に身体。
先に触る。
理屈はあと。
前にこの人が言ったことと、同じ方向だ。
「……じゃあ」
Serowは小さく息を吐く。
「ギターとか」
「何で疑問形なんだ」
「まだ自分でも半分くらいなんで」
「半分でも十分だろ」
Shadowのその言い方に、Serowは少しだけ笑った。
ーーー
「ドラムじゃないんですね」
冗談半分に言うと、Shadowは即座に返した。
「お前、腕より先に空間見てるだろ」
「え」
「叩くより、流れの隙間を触る方が向いてる顔してる」
「顔で分かるんですか」
「何となくな」
そこで初めて、Serowはこの人が自分を“見ている”のだと気づく。
自分だけが勝手に観察しているのではなかった。
相手もまた、言葉少なにちゃんと見ている。
しかも、ただうまいとか下手とかではなく、“どこに向いているか”を見ている。
それが少しだけ嬉しくて、少しだけ落ち着かない。
「……ギター、似合います?」
「知らん」
「でも向いてるかもって思った」
「思った」
「それ、だいぶ違いますよ」
「そうか?」
Shadowは本気で分かっていなさそうだった。
その鈍さが逆におかしくて、Serowは少し吹き出した。
この関係は、先輩後輩でも、友達でも、師弟でもない。
Shadowは何かを教えようとしているわけではないし、Serowも弟子入りしたいわけではない。
ただ、一度止まった人間が、まだ始まっていない人間の指先に、
雑なひと言で火を移しているだけだ。
それで十分、何かが動くことがある。
ーーー
その日の帰り、Serowは珍しくまっすぐ家に帰らなかった。
駅前の楽器店の前で足が止まる。
閉店間際で、シャッターを半分下ろし始めている時間。
ガラス越しに並ぶギターのシルエットだけが見える。
自分でも笑ってしまう。
たった数回、ゲームセンターで話しただけだ。
昔ドラムをやっていたという男に、雑に「やればいい」と言われただけだ。
それなのに、もう楽器店の前で立ち止まっている。
でも、こういうのはたぶん、もう始まっているのだ。
決意ではない。
覚悟でもない。
人生を変える宣言でもない。
ただ、まだ触っていないものへ、指先の向きが少し変わった。
その程度の変化。
けれど、本当に動き出す前というのは、大抵この程度の小ささで来る。
Serowはスマホを取り出し、検索欄を開く。
初心者 ギター
必要なもの
打ち込んでから、少しだけ止まる。
それから文字を消して、打ち直した。
ギター 最初の一本
そちらの方が、少しだけ前へ進んでいる感じがした。
ーーー
一方でShadowも、帰り道に自分の変化を少しだけ自覚していた。
余計なことを言った。
言いすぎたとも思う。
やればいい、なんて、自分の柄ではない。
しかも相手は、まだ何者でもない少年だ。
バンド仲間でもない。
昔の知り合いでもない。
責任もない。
だから本来なら、もっと適当に流して終わるはずだった。
なのに、そうしなかった。
たぶん、自分が見たのだ。
Serowの中にある、始まり方のよく分からない身体の反応を。
自分が昔そうだったことを、少しだけ思い出したのかもしれない。
何かに巻き込まれるように、先に身体が動いた夜。
理屈より前に、これかもしれないと思った瞬間。
ああいうものは、説明して手に入る類ではない。
だからこそ、潰さない方がいい。
それだけは、まだ覚えていた。