戦闘のない時間ほど、Oracleにとって厄介なものはなかった。
戦場にいるあいだは、考えるべき順番が決まっている。
敵の濃度。
味方の位置。
通すべき経路。
切るべき判断。
構成者である自分には、迷う暇より先に組み立てる義務がある。
だが、戦闘が終わり、保守ブロックの光が平常運転の白さに戻ると、
その順番の外側にあるものが、静かにこちらへ近づいてくる。
説明不能な残響。
端末上では四文字で済む。
観測記録にもそう書いてある。
感情異常。
既視感。
未完。
未送信。
仮の言葉はいくらでも置ける。
だが本当は、そのどれも正確ではなかった。
Oracleは個室の端末卓に向かい、昨日Nomadが追加した観測プロトコルを見返していた。
主観報告欄。
輪郭視認。
圧変化。
感情異常。
聴覚異常。
整っている。
よくできている。
実務としては充分だ。
Nomadらしい、過不足のない記述だった。
それなのに、そこに自分の感じているものを入れようとすると、途端に何かがこぼれる。
昨日も、その前も、残響はいつも同じ顔では来ない。
ときには、知らない夜道の冷えとして。
ときには、誰にも届いていない音の余熱として。
ときには、もう終わっているはずなのに、まだ終われないまま残っている何かの気配として。
記憶ではない。
夢とも少し違う。
ただ、自分の思考の並びの中へ、別の寂しさだけが紛れ込んでくる。
Oracleは記録欄を開いた。
《追加所見》
とだけ打って、止まる。
指が進まない。
何を書けばいいのか分からないのではない。
書ける言葉は、いくつも浮かぶ。
問題は、そのどれもが薄すぎることだった。
「喪失」では広すぎる。
「待機」では静かすぎる。
「未送信」では近いが、まだ表面だ。
もっと深い。
もっと個人的で、もっとみっともない何か。
Oracleは一度画面を閉じ、背もたれに体重を預けた。
個室は相変わらず狭い。
寝台、卓、収納。
必要なものしかない。
必要以上のものを置かない生活は、集中のためには向いている。
少なくとも、これまではそうだった。
けれど最近は、この何もなさが逆に苦しい。
視界に余計なものがないぶん、内側の違和感だけが目立つからだ。
気を逸らす対象がない。
戦闘でもない。
会話でもない。
ただ構造物の低い駆動音の中で、自分の深層だけが少しずつ掘られていく。
Oracleは立ち上がり、個室を出た。
通路には誰もいない。
保守ブロックの昼は、働く者の気配だけを残して、会話を薄くする。
壁面灯の明滅。
搬送カートの遠い軋み。
足音の吸われ方。
構造の中にいる、という感覚だけは落ち着く。
人の感情より先に、ものの配置や導線がある世界。
Oracleは昔から、そういうもののほうが信用できた。
共有卓のある部屋まで行くと、Nomadがいた。
端末を二台開き、黙ってログの照合をしている。
こちらに気づいても、すぐには話しかけてこない。
その距離感がありがたかった。
Oracleは対面の席に座る。
しばらくは、お互い何も言わなかった。
やがてNomadが視線を上げる。
「眠れてないな」
挨拶みたいに言う。
「見れば分かることを確認するな」
「確認しないと、お前は申告しない」
その通りだったので、Oracleは何も返さなかった。
Nomadは端末を閉じない。
手も止めない。
ただ声の温度だけを少し変える。
「残響、増えてるか」
Oracleは数秒考えた。
否定はできない。
だが、素直に肯定するのも少し違う気がした。
「増えてる、というより……深くなってる」
Nomadの指が一瞬だけ止まる。
「前はもっと、戦闘の余熱に近かった」
Oracleは自分の言葉を探すように続けた。
「今は、戦闘が終わったあとも残る。時間差で来ることもある。
思い出すというより、先に触れられる感じだ」
「内容は」
「一定じゃない」
それがいちばん厄介だった。
一定でないものは、分類が難しい。
分類できないものは、構成に置きづらい。
Nomadは短く息を吐いた。
「戦闘由来の負荷なら、休養で戻る。だがそれじゃないなら、別の扱いがいる」
「分かってる」
「分かってる顔に見えない」
Oracleはそこで初めて少しだけ苛立った。
Nomad相手には珍しいことだった。
「じゃあ、どう見える」
Nomadは答えを急がなかった。
それから静かに言う。
「自分の中に入ってきたものを、“構成者として処理できる範囲”に押し込めようとしてる顔だ」
部屋の空気が、そこでわずかに止まる。
正確すぎて、反論しづらかった。
Oracleは視線を逸らす。
共有卓の傷。
角の摩耗。
整備で何度も触られた跡。
そういう、感情を持たないものばかりを目で追う。
「それ以外の処理の仕方を知らない」
ようやく出た声は、思っていたより低かった。
Nomadは何も言わない。
否定もしない。
慰めもしない。
そのかわり、言葉が落ち着くのを待っている。
Oracleは続ける。
「構成が崩れるのが一番まずい。私が曖昧なものに足を取られたら、
全体が遅れる。だから先に名前をつける。分類する。順番に置く。そうしないと??」
そこで止まる。
「そうしないと?」
Nomadが促す。
Oracleは唇を閉じた。
だが、いったん開いた言葉はもう完全には戻らない。
「……そうしないと、飲まれる気がする」
言ってしまってから、少しだけ後悔した。
あまりに感情的な表現だったからだ。
構成者が使うには不向きな語だ。
だがNomadは笑わなかった。
「なら、それを記録しろ」
「飲まれる気がする、って書けと?」
「近いなら書けばいい。整った言葉じゃなくていい」
Oracleは首を振る。
「整ってない記録は、記録として弱い」
「整いすぎて嘘になるよりはましだ」
その返しは、珍しく強かった。
Oracleが見上げると、Nomadの視線は真っ直ぐだった。
感情的ではない。
だが、譲らないときの目だった。
「お前の報告は、戦況だけじゃなく、お前自身の精度にも関わる」
Nomadが言う。
「構成者が何に削られてるか分からないまま運用するほうが、全体には危険だ」
理屈として、完全に正しい。
だからこそ苦しい。
自分個人の揺らぎを、全体運用の項目に乗せる。
それは必要なことだ。
だが、必要であることと、受け入れやすいことは違う。
Oracleは共有卓に置かれた自分の端末を引き寄せる。
新しい記録欄を開く。
Nomadは黙って待つ。
入力カーソルが点滅する。
《追加所見》
《構成外からの流入感あり》
そこで止まる。
消す。
書き直す。
《現象は戦闘後も持続》
《休養で解消する種類ではない》
また止まる。
違う。
間違いではないが、足りない。
Oracleは目を閉じた。
昨夜、個室でニュース映像を閉じたあとの感覚。
戦闘中に一瞬だけ、知らない寂しさが胸を掠めたときの感じ。
誰かが終われないまま音を置き続けているような、あの圧。
それを思い出しながら、今度はほとんど考えずに打つ。
《未完了のものに近い》
《終わっているはずなのに、終わっていない感じがある》
《自分の感情というより、感情の置き場所だけが流入する》
打ち終えたあと、Oracleはしばらく画面を見つめた。
整っていない。
だが、少なくとも嘘ではない。
Nomadがその文面を横から見て、短く頷く。
「それでいい」
「よくない」
「よくなくても、現時点の本音なら使える」
Oracleは反論しなかった。
反論するための力が少しだけ足りなかった。
部屋の外で、軽い金属音がする。
たぶんSerowだ。
どこかで余計なものを触って、Shadowに後で文句を言われるやつ。
そんな、いつもの気配が少しだけ救いになる。
いつも通りの空気の中で、自分だけが少しずつ構成の手前へ引き戻されていく。
それが今のOracleにはいちばん嫌だった。
構成者でいるためには、感情を持たない必要はない。
だが、感情に順番を乱されないことは必要だ。
そして今、自分の中へ入ってくる残響は、まさにその順番の根元を鈍らせようとしている。
「Nomad」
「何だ」
「私が鈍ったら、切れ」
言葉にした瞬間、それが思っていた以上に重い依頼だったことに気づく。
Nomadは即答しない。
数秒だけ考え、それから言う。
「鈍ったら支える。崩れるなら切る」
Oracleは薄く笑った。
笑うしかなかった。
「優しいな」
「運用だ」
その答えに、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
優しさではなく運用。
だから受け取れる。
そういう関係だった。
Oracleは端末を閉じ、席を立つ。
個室へ戻る気にはまだなれない。
だが、共有卓にいるだけでも少し違う。
誰かの気配がある場所では、残響が完全に自分ひとりのものにならずに済む気がした。
その日の午後、Oracleは通常通りに構成資料を更新し、次戦闘の暫定線を引き、
外部音響干渉プロトコルの補足も加えた。
作業の精度は落ちなかった。
表面上は、いつものOracleのままだった。
けれど、その夜。
個室へ戻り、照明を落としたあと、彼女は初めて少しだけはっきり理解する。
これは一過性の揺れではない。
戦闘の副熱でもない。
もっと静かに、もっと長く、自分の深いところへ残っていく種類のものだと。
そして、その理解こそが、いちばん苦しい。
名前のない残響に削られながらも、翌日にはまた構成者として立たなければならない。
順番を作り、他人の立ち位置を決め、自分だけは乱れていない顔をしなければならない。
Realのどこか遠い層で、まだ出会っていない喪失を抱える誰かが、似たように音の手前で立ち尽くしていることを、Oracleはまだ知らない。
ただ、Echoのこの保守ブロックで、構成者は少しずつ“構成だけでは処理できないもの”に追いつかれ始めていた。