Real 第24話『まだ不格好でいい』


部屋の空気が、ほんの少しだけ変わる。

さっきまで四人で鳴らしていた熱が、今は一本のギターの前に静かに集まっている。
大げさなことは誰も言わない。
でも、誰も目を逸らさない。

Serow は、アンプにつないだギターを持ったまま、小さく息を呑む。

手が慣れていない。
肩の位置も落ち着かない。
ストラップの長さも、指板との距離感も、まだ全部が借り物みたいだった。
部屋で一人で触っていた時とは違う。
あの時は、間違えても誰にも聞かれない。
今は違う。
ここには、昨日まで自分が見上げていた人たちが、揃っている。

逃げたいわけじゃない。
でも、うまくやれる気もまるでしない。

「ゆっくり」

Aria が、もう一度だけそう言う。

その声は近い。
けれど押してこない。
ただ、前へ出るための場所だけを静かに残してくれる声だった。

Shadow は壁にもたれたまま、腕を組んでいる。
Nomad は椅子に浅く座って、視線だけを向けている。
Oracle は鍵盤の前で手を止めたまま、Serow を見ていた。

Serow は、一度だけ左手を指板に置く。

どこを押さえるかは、正直ちゃんと決まっていない。
頭で考えると余計に分からなくなる。
だから、いちばん怖くないところを探すみたいに、一本の弦に指を乗せる。

右手で、ピックを落とす。

鳴った。

綺麗ではない。
少し濁って、少し弱くて、ほんの少しだけ余計な弦にも触れた。
上手い音では到底ない。
でも、音にはなった。

その一音が、狭い部屋の中へちゃんと出た。

Serow 自身が、まずそれにいちばん驚いた顔をした。

鳴る。
いま、自分の手で鳴った。
まだ不格好でも、間違いなく外へ出た。

最初に口を開いたのは Shadow だった。

「……ちゃんと鳴ったな」

からかいでもなく、慰めでもない。
事実だけを置くような言い方。

Serow は、その一言で少しだけ呼吸が戻る。

「変じゃなかったですか」
「変ではある」
Shadow は言う。
「でも最初はそんなもんだ」
少し間を置いて、続ける。
「むしろ、変に綺麗な方が気持ち悪い」

その返しに、Oracle が少しだけ笑う。

「優しいね」
「別に」
「今ちょっと優しかった」
「気のせいだ」

けれど、否定の仕方がもう強くない。
Shadow 自身も、あの一音をただの失敗としては聞いていなかった。

Nomad は、そのあと短く言った。

「もう一回」
Serow は目を瞬かせる。
「え」
「今のは“出た”だけだ」
Nomad は淡々と続ける。
「次は、自分でどこへ出したいか少しだけ考えろ」
「どこへ……」
「何でもいい。
高いか、低いか。
強いか、弱いか。
その程度でいい」

Serow は、その言葉を頭の中で反芻する。

どこへ出したいか。

そんなこと、考えたことがなかった。
今までは、とにかく触ることだけで精一杯だった。
でも今、Nomad は技術の話をしていない。
音の正解ではなく、自分の中の向きを訊いている。

Aria は、そのやり取りを見ながら少しだけ目を細めた。

「Good」
と、小さく言う。
「次、choose」

選ぶ。

その言葉は、Serow の中で不思議と怖くなかった。
むしろ少し嬉しかった。
音を出すだけの人じゃなく、選ぶ側に入れてもらえた気がしたからだ。

もう一度、左手を置く。
今度はさっきよりほんの少しだけ低い位置。
理由はない。
でも、さっきよりこっちだと思った。

右手を落とす。

二音目は、一音目より少しだけましだった。
まだ粗い。
まだ頼りない。
でも今度は、どこへ出したいかがほんの少しだけ入っている。

「うん」
Aria が、すぐに言う。
「今の方があなた」

Serow は思わず顔を上げる。
「僕ですか」
「うん。最初のは“怖い”が多かった。今のは少しだけ“行きたい”が入ってる」

その言い方に、Serow の胸が少しだけ熱くなる。
自分では、そんなふうに聞こえていたなんて分からない。
でも、Aria がそう言うなら、きっとそうなのだと思えた。

Oracle は、そのやり取りを聞きながら、静かに何かを受け取っていた。

Aria はやはり、人の音の奥を見る。
上手いか下手かの前に、そこに何が混ざっているかを聞いてしまう。
そして Serow は、まだ何も持っていないようでいて、すでに“向き”だけは持っている。

そのことが、妙に今の自分たちの状態とも重なって見えた。

Shadow がそこで、壁から背を離す。

「貸せ、じゃなくて」
と、一度言ってから言い直す。
「そのまま持て」

Serow は慌てて姿勢を正す。

Shadow は近づいて、直接触れないぎりぎりの距離で見る。
左手の角度。
右手の位置。
身体の力の入り方。
それを数秒で見てから、短く言った。

「力みすぎ」
「はい」
「あと、音を出す前に、もう“失敗する”って顔してる」
「顔に出てました?」
「出る」
「うっ」

Oracle が横で笑いをこらえる。
Nomad は口元だけ少し動かす。
Aria は小さく肩を揺らした。

「でも」
Shadow が続ける。
「今の二回目は悪くなかった」
Serow は少しだけ目を見開く。
「ほんとに?」
「ほんとに、って確認するな」
Shadow は言う。
「まだ下手だし、全然これからだけど、少なくとも“鳴らしたい場所”は少し見えた」

その言葉は、Serow にとって十分すぎるほど大きかった。
認められた、とはまだ言えない。
でも、入口に立ったことだけは否定されなかった。

「もう一回」

今度は Oracle が言った。

Serow は驚いてそちらを見る。

Oracle は鍵盤の前で、少しだけ柔らかい顔をしていた。
「今度は、私が和音置くから」
「え」
「その上に、一音だけでいい。
ちゃんと合わそうとしなくていい。
ぶつかってもいいから」

その提案に、部屋の空気が少し変わる。
一人で音を出すのとは違う。
他人の音の上に、自分の一音を置く。
それはもう、“ただの練習”ではなかった。

Aria は静かに頷く。
Nomad も止めない。
Shadow は腕を組み直しただけだが、目を逸らさない。

Oracle が、短い和音を一つ置く。
やわらかく、少し開いた響き。
それは今作っている曲の核に近い音だった。

Serow は、その上に一音を置く。

今度は、さっきまでよりもっと怖かった。
でも、音は出た。
少し揺れて、少し頼りない。
それでも、Oracle の和音の上に、ちゃんと一本だけ線が乗る。

部屋の中に、小さな沈黙が落ちる。

Aria が最初に息を漏らした。

「……See?」
小さく、嬉しそうに言う。

「何が」
Oracle が返す。
「入ってる」
Aria は言った。
「まだ下手。
でも、外じゃない」

その一言で、Serow の胸の奥が強く鳴る。

外じゃない。

昨日まで、自分は明らかに外から見ていた。
箱の端。
飲み屋の向かい。
ただ、何かがすごいと感じているだけの側。
でも今、その言葉で、ほんの少しだけ内側へ足を入れることを許された気がした。

Nomad が低く言う。

「だから言っただろ」
「え」
「お前は、もう半分中に入ってる」

その言葉が、昨日よりもずっと具体的な重さで入ってくる。
ただの比喩ではなくなったからだ。
今、自分の一音が実際に他人の和音の上へ置かれた。

Shadow は、そのやり取りを聞きながら、少しだけ目を伏せる。
そして、小さく言った。

「次からは、ケース持ってるだけの顔するなよ」
「……はい」
「持ってるなら、鳴らす顔しろ」

Serow は、息を吸ってから頷いた。
「はい」

そのやり取りのあと、空気は自然に元の流れへ戻っていった。

Oracle が和音を置く。
Nomad が低音を通す。
Aria が熱を作る。
Shadow が終点を決める。
そこへ、さっきまでとは違う温度が混ざっている。

部屋の隅にいたはずの Serow の一音が、場の空気そのものを少しだけ変えたのだ。

大きな変化ではない。
曲の中心に入ったわけでもない。
でも、「この部屋では音を出していい」という前提が、一人ぶん増えた。
それは思っているよりずっと大きい。

そして四人で鳴らした音の方も、さっきより明らかに輪郭を持ち始めていた。

「これ」
Oracle が、弾きながら小さく言う。
「いけるかも」

Nomad はすぐには返さない。
Aria はフレーズを切らない。
Shadow は一拍だけ深く落とす。

そのあとで、Nomad が言った。

「ようやく出す前提の顔になったな」
Oracle は少しだけ笑って、でも否定しなかった。

出せる。
まだ完成ではない。
歌詞も、構成も、細部は全然これからだ。
それでも、この曲は閉じた部屋の中だけに置いておくものではない。
外へ持っていくための骨が、今ようやく見えた。

Aria が、その空気を受けて一音だけ強く伸ばす。
Shadow がそれを受け止める。
Nomad が下を支える。
Oracle は、そこで初めてはっきりと思う。

これは外へ出せるかもしれない。

Soil の不在に縛られたままの音ではない。
かといって、何もなかったふりの音でもない。
喪失を含んだまま、でも閉じない。
開いたまま前へ行こうとする音。

そしてその部屋の片隅には、まだ不格好な一音を出したばかりの少年が立っている。
その事実まで含めて、今の音はもう前の日とは違っていた。

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