Trace 第1話『ファインダーの向こうの未送信』


私は、まだ誰にもこのことを話していない。

話していないというより、話せないのだと思う。
話そうとすると、たちまち言葉の方が先に壊れる。
見たものが曖昧だからではない。
曖昧なのに、妙に正確だからだ。

新聞の現場にいた頃、私はよく、出来事には輪郭があるものだと思っていた。
事故。会見。葬儀。火事。
どれも人がそう呼ぶから、そう見えるのだと。
名づけられたものは、写真の中でもそれらしく閉じる。

だが、今は違う。

ファインダーを覗いた瞬間だけ、名づけようのないものが混じる。

それは幽霊のように人の形をしているわけではない。
幻覚というには硬すぎる。
記憶というには他人行儀で、現実というには遠すぎる。
ただ、何かの途中のような像だけが、私の視界に滑り込む。

母が死んだあとからだ。

病室の白は、死のあともしばらく目に残る。
カーテンのひだ。
点滴台の金属の細い光。
夜勤の看護師の靴音。
人がいなくなっても、物の配置だけが残ってしまう、あの感じ。

あれを知ってから、私は、なくなったものの場所だけがやけに見えるようになった。

その少しあとだった。
Soilの訃報を知ったのは。

誌面のための情報として、先に入ってきた。
心臓発作。手術。不成功。
文字はどこまでも事務的だった。
それなのに、紙面の上でその名前だけが妙に沈んで見えた。
私自身が母の死でまともではなかったからかもしれない。
あるいは、別の理由だったのかもしれない。
今となっては分からない。

ただ、その頃からだ。
カメラの向こうに、写ってはいけないものが写るようになったのは。

最初に見たのは、路地ではなく、長い通路だった。

私はその夜、誰の取材にも出ていなかった。
締切を一つ落としかけて、編集部に残っていた。
誰もいなくなった机の島。
冷めた缶コーヒー。
電源の落ちたモニターに自分だけがぼんやり映っている。
そんな、ごく普通の深夜だった。

試し撮りの癖で、私は机の上の古い一眼を持ち上げた。
誰もいない編集部を、意味もなく覗いた。
暗がりの中で、ファインダーだけが四角く世界を切り取る。

そのはずだった。

だが、そこに見えたのは編集部の通路ではなかった。

白く細い道。
壁とも霧ともつかない面が、ずっと先まで伸びている。
途中で折れ、また折れ、行き止まりなのか続いているのかも分からない。
音はない。
なのに、何かが鳴り止んだ直後の空気だけがある。

私は思わず目を離した。
裸眼で見れば、そこにはいつもの机とコピー機しかない。
もう一度覗く。
やはり白い通路だ。

その奥を、誰かが横切った。

顔は見えない。
ただ、立ち止まらない。
迷っているようでいて、どこかへ向かっている。
その背中だけを見て、私は不意に、会ったこともない誰かを“知っている”気がした。

もちろん、おかしいのは私の方だ。

私はカメラを置いた。
洗面所へ行き、冷たい水で顔を洗った。
戻ってから、もう二度と覗かなかった。

だが、それで終わらなかった。

次に見えたのは、崩れた床だった。

今度はライブハウスの外だった。
取材先ではない。
別件の帰り道で、看板の明かりが雨上がりの舗道に滲んでいた。
私は無意識に足を止めて、濡れた地面へレンズを向けた。
照明の映り込みを拾うだけの、記事にもならない癖の一枚。
それで十分だった。

ファインダーの中で、水たまりは消えた。

代わりに見えたのは、黒く裂けたような地面だった。
金属の骨組みのようなものが半ば露出していて、その下には落ちてはいけない深さがあった。
その縁を、四つの影が走っている。

正確には、四人いたと後から思っただけだ。
見えているときの私は、人数さえ数えられなかった。
速すぎたのでも、暗すぎたのでもない。
ただ、見えている情報の種類が、現実と違っていた。

一つの影は、止まっているように見えて、全体を動かしていた。
一つは、直線ではなく、流れを繋いでいた。
一つは、重く受け止めていた。
もう一つは、ずらしていた。

それを、人間の動きとして認識するまでに、数秒遅れた。

その時には、もう、別のものが見えていた。

輪郭のない塊。
霧とも煙とも違う。
音もなく、しかし圧だけを持つもの。
それが床の裂け目からではなく、空間の“関係”から生えているように見えた。

私はシャッターを切った。

反射だ。
何であれ、目の前にあるなら撮る。
それが長年の習い性だった。

だが、保存された画像には、ただ濡れた舗道と照明しか残っていなかった。

現実に戻ったあとほど、恐ろしいものはない。
見たはずのものが一切痕跡を残していないとき、人は自分の神経を疑うしかないからだ。

私はその夜、撮った写真を削除しなかった。
消すべきだったのかもしれない。
だが、何も写っていない写真を消せない時点で、もう私は普通の手順から外れていた。

それからだ。
私は、見る前に少しだけ分かるようになった。

ファインダーを上げる、その手前。
光の焦点が合う直前。
ごくわずかに空気が変わる。
人のいる風景なのに、人間だけでは埋まらない隙間が出る。
そういう時にだけ、向こう側が混じる。

誰かが走る。
誰かが落ちる。
誰かが手を伸ばす。
誰かが、まだ鳴っていないはずの音を探している。

それらは私には断片でしかない。
並びもしないし、説明もつかない。
夢にしては冷たく、現実にしては手触りが薄い。
だが、何度見ても思う。
あれは、私のための像ではない。

私は呼ばれているのではなく、ただ、見えてしまっている。

だから困る。

もし呼ばれているなら、応えるか否かを決めればいい。
だが、ただ見えてしまっているだけのものには、返答の形式がない。
無視するのか。
記録するのか。
忘れたふりをするのか。
どれを選んでも、選ばなかったものが残る。

今夜もまた、私は編集部の隅で、誰にも渡さないメモを書いている。

書けば理解できると思った。
少なくとも、見たものの順番くらいは整うと。
だが実際には逆だ。
書けば書くほど、あれらがどこかで繋がっていることだけが分かってくる。

白い通路。
崩れた床。
四つの影。
輪郭のない圧。
まだ鳴っていないのに、鳴ったあとのような静けさ。

あれが一つの場所なのか。
一つの時系列なのか。
あるいは、誰かの痛みが別の場所に映っているだけなのか。
私には分からない。

ただ、ひとつだけ、妙に現実的な感覚がある。

あちら側には、順番がある。

壊れる順番。
耐える順番。
ずらす順番。
繋ぐ順番。
そして最後に、届く順番。

私はそのどれの中にもいない。

いないはずなのに、ときどき、最後の順番だけがやけに鮮明に見えることがある。

音だ。

姿より先に、音のための空白が見える。
何かが鳴れば、そこだけが揃うと分かる。
それが何の音なのか、誰のものなのかは分からない。
けれど、それがまだ来ていないことだけは分かる。

だから、私は少しだけ待っている。

待っている、と言うと、まるで希望のようだ。
だがたぶん、そうではない。
確認したいだけなのだと思う。
自分が壊れて見ているのではなく、本当にどこかで何かが進んでいるのだと。

もし次にまた見えるなら、今度は通路ではなく、その先を見たい。
崩れた床ではなく、そこを越えたあとの景色を。
四つの影の動きではなく、その中心でまだ名を持たない何かが、どう終わるのかを。

もっとも、終わるとは限らない。
むしろ、私が見ているものはいつも、終わりではなく、その手前ばかりだ。

未送信のまま止まった言葉。
完成する前の輪郭。
鳴る直前で息を止めた音。
そういうものだけが、なぜかこちらへ滲んでくる。

だから、この記録にも宛先はない。

送れば、誰かが答えを求める。
答えを求められた瞬間、これはただの作り話になる。
それでは駄目だ。
これは作り話であってはいけないし、現実そのものであってもいけない。

ただ、見えたものとして置いておくしかない。

机の引き出しにしまう前、私は最後に一行だけ書き足した。

焦点距離の外で、まだ鳴っている。

それが何なのかは、まだ分からない。
だが、分からないまま記しておくことだけが、
今の私に許されたいちばん正しい行為のように思えた。

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