保護圏の空気は、戦闘直後の熱を引きずったまま、妙に静かだった。
誰も大きな声を出さない。
Ariaの通話が終わってから、その場に残ったのは、戦闘の余韻とは別の種類の張りつめ方だった。
見えない敵との実戦検証。
民間視界遮断の未投入。
外部者による目撃。
どれも、今までの“ちょっとした揺らぎ”では片づかない。
Oracleは短く言った。
「場所を移す」
その一言で、全員が動く。
Ariaも何も聞かずについていった。
整理する者たち
仮設調整室へ入ると、Nomadがすぐに端末を展開した。
戦闘記録とは別のログが立ち上がる。
視認制限。
外部流入。
目撃時間。
個体反応。
楽曲投入。
全部が冷たい項目名で並ぶ。
Oracleは立ったまま画面を見つめている。
表情は硬い。
けれど乱れてはいない。
乱れていないからこそ、事態の重さが分かる。
Nomadが先に口を開いた。
「目撃は偶発。だが、内容としては最上位秘匿に抵触する」
①見えない敵の存在そのもの。
②それに対する対処組織の活動。
③Ariaの音響干渉特性。
「国民一般には伏せられている」
Oracleが静かに続ける。
「見えない敵は、知られていない前提で維持されている」
Ariaはその言葉に少しだけ息を詰める。
知っていたつもりだった。
でも、改めてそう言われると、自分が今立っている場所の異質さがはっきりする。
見てはいけないものを見てしまった。
しかもそれが、自分の大事な相手だ。
Nomadは端末を操作しながら、さらに淡々と告げる。
「通常手順なら、目撃者は保護対象ではなく処理対象へ移る」
Ariaが顔を上げる。
その一瞬だけ、室内の温度が少し下がったように感じた。
「……処理って、なに」
Nomadは嘘をつかない。
Oracleもそれを止めない。
「記憶処置」
一拍。
「見た事実を保持できなくする」
Ariaの指先が、わずかに震えた。
軽口のようで本気の言葉
重くなりかけた空気を、先に崩したのはSerowだった。
「だったらもう、こっちで抱えちゃえばよくない?」
壁にもたれたまま、半分冗談みたいな顔で言う。
「Ariaごと、うちの側で受け入れてさ。再デビューでも何でも、面倒見ちゃえば」
「お前は言い方が軽い」
Oracleが冷たく返す。
「でも発想は間違ってないだろ」
Serowは肩をすくめる。
「どうせもう外に戻して何もなかったことに、って無理な段階じゃん」
Shadowが椅子の背にもたれたまま、短く足す。
「今さら切り離せない」
その一言は、Ariaに思った以上に深く入った。
切り離せない。
それは戦術上の話だ。
でも、それだけじゃない響きがある。
Serowはさらに続ける。
「うちの機関で囲って、音も管理して、表向きは別ラインで出せばいい。
少なくとも、野放しより安全」
「人を案件みたいに言うな」
Oracleの声は低い。
けれど、完全否定ではない。
Nomadはそのやり取りを聞きながら、端末から目を離さず言った。
「現実的ではある」
①秘匿維持。
②能力保全。
③本人安全。
「三点だけ見れば、最も合理的だ」
Ariaは何も言えない。
自分の今後が、まるで進路相談みたいに、でももっと重たい何かとして話されている。
Oracleの相談
Oracleはそこで初めて、はっきり息を吐いた。
「上に上げる」
誰へともなく言う。
「独断では決められない」
その声は落ち着いていた。
けれど、Ariaには分かる。
これは“助けてもらう相談”ではない。
“処置を決めるための報告”だ。
国家極秘レベル。
その重さを、Oracleだけは最初から正確に理解している。
通信回線を開く前、ほんのわずかにだけAriaへ視線を向けた。
それは説明でも慰めでもない。
ただ、“ここからは私が受ける”という目だった。
短い接続音のあと、Oracleの声がさらに一段硬くなる。
「外部視認事故を報告します」
その言葉から先は、ほとんど事務的だった。
時刻。
場所。
遮断不備。
目撃者一名。
内容不明瞭だが核心接触の可能性あり。
そして、記憶保持の危険性。
Ariaはそのやり取りを、遠い場所のことみたいに聞いていた。
見られてしまった。
だから、忘れなければならない。
可哀想でも、そうするしかない。
理屈は分かる。
分かるからこそ、苦しい。
Ariaの揺れ
調整室の隅で、Ariaは自分の端末を握ったまま俯いていた。
マネージャーとは、何度もぶつかってきた。
音楽性のこと。
見せ方のこと。
売り方のこと。
ソロでデビューして間もない自分に、あれもこれも求めてくることが息苦しくて、
逃げたくなる夜もあった。
正直に言えば、今この場所は楽だった。
いまのSTRUCTURE ZEROには、息ができる感じがある。
家族というには少し照れくさい。
兄弟というには、それぞれ不器用すぎる。
でも、誰かが崩れそうなら誰かが拾う。
言葉にしきれなくても、同じ拍で立っていられる。
そういう仲間の気配が、もうここにはある。
だから一瞬だけ、思ってしまった。
このまま、戻らなくていいなら楽なのに。
そう思った瞬間、胸の奥に鈍い痛みが来る。
それで本当にいいのか。
自分を見つけて、押し出して、ぶつかりながらも仕事にしてきた相手がいる。
衝突ばかりだった。
でも、見捨てられてはいなかった。
捜していた、とさっき言っていた。
なのに、自分は今、ここへ逃げ込みかけている。
「……最低」
自分に向けて小さく吐く。
誰にも聞こえないくらいの声だった。
でも、Oracleには聞こえていた。
通信を終えたOracleが、Ariaの前で足を止めた。
「どうした」
第23話の時よりも、今度は少し柔らかい声だった。
責める響きはない。
ただ、放っておかないだけの声。
Ariaはすぐには答えない。
答えようとすると、自分の中のぐちゃぐちゃしたものまで全部出てきそうだった。
Oracleは待つ。
急かさない。
構成者のくせに、こういう時だけ沈黙の置き方が上手い。
やがてAriaは、小さく言った。
「楽なの」
一拍。
「ここにいるの、すごく」
Oracleは黙って聞いている。
「デビューしてから、ずっと不安だった」
①ちゃんとやれるのか。
②一人で持つのか。
③求められるものに合わせ続けて平気なのか。
「でも、ここだと……違う」
また言葉が切れる。
整理できない。
「逃げたいみたいで、嫌になる」
「誰から」
「元の世界から」
Oracleは少しだけ目を細めた。
否定もしないし、綺麗事も言わない。
Ariaはさらに続ける。
「マネージャーとだって、ぶつかってばっかりだった。なのに、捜してたって言われて……」
喉が詰まる。
「私、ここにいてほっとしてるのに。それが、ちょっと後ろめたい」
その本音に、部屋の空気が少しだけ静まった。
Oracleはすぐには返さなかった。
軽く慰めるのは簡単だ。
でも、それではたぶんAriaの苦しさを薄くしてしまう。
だから、少し考えてから言う。
「後ろめたく感じるのは、逃げたいからじゃない」
Ariaが顔を上げる。
「切れてないからだ」
一拍。
「ちゃんと向こうにも繋がってる。だから苦しい」
その言葉は、妙にまっすぐだった。
「本当に全部どうでもよかったら、そんなふうには悩まない」
「……」
「ここが楽でもいい。向こうが重くてもいい。その両方を同時に持ってるだけだ」
Ariaはその言い方に、少しだけ救われる。
許されたわけじゃない。
でも、自分の揺れが醜いだけのものではないと思えた。
Oracleはさらに静かに続けた。
「ただ」
「うん」
「今回の件は、感情だけでは処理できない」
その声で、また現実が戻る。
マネージャーは見てしまった。
見えてはいけないものを。
そしてこの世界では、それは“可哀想だから見逃す”では済まない。
「上の判断はまだ確定じゃない」
Oracleはそう言う。
だがその目は、甘い期待を抱かせない。
Ariaも分かっていた。
選択肢は、多くない。
「……忘れさせられるの」
「その可能性が高い」
短い返答。
優しくはない。
でも、嘘でもない。
兄弟みたいな場所
Serowが空気を読みすぎない調子で口を挟む。
「まあ、最悪そうなっても、Ariaが悪いわけじゃない」
Shadowも続ける。
「見た側が悪いわけでもない。こっちのミスだ」
Nomadは端末を閉じながら言った。
「感情的責任と運用責任は分けるべきだ」
それから少しだけ視線を和らげる。
「少なくとも、あなた一人に背負わせる話ではない」
それはNomadなりの慰めだった。
Ariaはその三人を見て、胸の奥が少しだけ痛く、少しだけ温かくなる。
本当に、ずるい。
こんな場所ができてしまったら、戻りにくくなるに決まっている。
家族のようで、兄弟のようで、でもたぶんそれだけでもない。
うまく言えない近さが、もうここにはある。
Oracleが最後に言う。
「今夜は結論を急がない」
①記録はまとめる。
②上の返答も待つ。
③その間、Ariaはここにいていい。
“いていい”。
その言葉に、Ariaは何も返せなかった。
返せなかった代わりに、ほんの少しだけ頷く。
逃げ込んでいるのかもしれない。
でも、それだけじゃない。
ここにいることでしか見えないものが、もう確かにある。
そして、その代償として、誰かが何かを忘れなければならないかもしれない。
その重さごと抱えながら、今夜はまだ終わらない。