ーーー時を同じ頃、Real世界における彼らの物語も動きだすーーー。
夜の新宿は、何かが終わった人間を、妙にうまく紛れ込ませる。
人が多い。
光も多い。
音も多い。
けれど、そこに立っている誰かが壊れかけていることには、案外誰も気づかない。
気づいても、すぐに通り過ぎる。
街のほうが、立ち止まることを許さないからだ。
Nomadは、その街を歩くたびに思っていた。
Oracleは、ここで消えずに残ってしまった人間だと。
Soilが死んでから、全部が一度壊れた。
デビューが決まっていたことも、未来の話も、三人で積み上げたものも、
ひとつずつではなく一度に崩れた。
そのあとOracleは、歌う側へ押し出され、前へ立たされ、結局その形も長くは持たなかった。
それでも音楽を捨てきれず、夜ごと路上へ出るようになった。
Nomadはそれを、最初は遠巻きに、次第に習慣のように見ていた。
助けたい、というよりは。
見届けたい、の方が近かった。
もともとNomadは、爆心地の内側にいた人間ではない。
三人の大学時代の熱も、Soilの死が残した穴の深さも、当事者ほど正確には持っていない。
だからこそ、壊れたあとの輪郭だけは見えた。
Oracleはまだ終わっていない。
終わっていないのに、自分で終わり方を決められずにいる。
そういう音を、彼女は夜ごと弾いていた。
立ち止まった夜の、そのあと
ariaが立ち止まった夜も、Nomadは少し離れた場所にいた。
歩道の縁。
人の流れを邪魔しない角度。
視界には入るが、会話の輪には入らない位置。
Nomadはそういう立ち方が得意だった。
Oracleの音が流れ、ひとりの女が通り過ぎかけて、止まった。
振り返って、戻って、座り込んだ。
最後まで聴いた。
そして演奏後、最初に口を開いた。
「変なの」
その言葉に、Oracleが少しだけ救われたような顔をしたのを、Nomadは見逃さなかった。
あの瞬間だった。
崩壊したあと、ずっと同じ場所を回っていた歯車が、ほんのわずかに噛み直した。
そう見えた。
劇的なものではない。
その場で抱き合うわけでも、運命みたいな顔をするわけでもない。
ただ、Oracleの音に対して、分かったふりをせず、必要以上に傷を撫でず、
それでももう一曲を要求できる人間が現れた。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
Nomadはその夜、声をかけなかった。
ariaにも。
Oracleにも。
まだ早いと思ったからだ。
再起は、目撃した直後に言葉にすると壊れることがある。
熱は、正しい距離で冷まさなければ輪郭にならない。
Nomadはそういう待ち方を知っていた。
木材の反りも、音の鳴りも、人の変化も、急に手を入れすぎると駄目になる。
だから数日、様子を見た。
少しだけ変わったOracle
変化は、目立たないところから出る。
Oracleは次の夜も同じ場所にいた。
その次の夜もいた。
相変わらず許可は取っていないし、看板もないし、金を稼ぐための顔もしていない。
けれど、音が少しだけ変わっていた。
前は、完成しない構造の断面を見せられている感じだった。
美しいが、閉じていた。
届きかけて、届かないまま終わる音だった。
今は違う。
まだ未完成だ。
まだ危うい。
それでも、どこかに“返ってくる前提”がある。
聴いて終わりではなく、誰かに触れて戻ってきた音になっていた。
Nomadはその違いを、理屈より先に体で拾った。
あの夜の女だ、と思った。
名前も知らない。
何者かも知らない。
だが、あの一回でOracleの音の位相が少し変わった。
そうとしか言えなかった。
Nomadは、ようやく近づくことにした。
ーーー
その夜の演奏が終わったあと、Oracleは小さく息を吐いて、機材の電源を落とした。
足元のケースはくたびれていて、譜面も整理されているようで少し散っていて、本人の几帳面さと疲れが半端な形で同居していた。
「また来てたんだ」
片づけながら、Oracleが言う。
声の調子からして、今日初めて気づいたわけではない。
気づいていて放っていたのだろう。
Nomadは、少しだけ肩をすくめた。
「うん」
「何回目?」
「それ、言う必要ある?」
「あるかも」
Oracleは顔を上げる。
責めているわけではない。
ただ、観測するみたいに見ている。
昔からそういう目をする。
人の言葉を聞くより先に、構造を見ようとする目だ。
Nomadは少し考えてから、正直に言った。
「かなり前から」
「……趣味悪いね」
「そうかも」
否定しないと、Oracleは少しだけ笑った。
笑った、というより、息の抜き方が笑いに近かった。
「何しに来てるの」
「音を聴きに」
「それだけ?」
「それと、確認」
「何を」
Nomadは少しだけ間を置いた。
急かすと閉じる。
この人はそういう種類だ。
だから、ずっと見ていたのに、今まで声をかけなかった。
「まだ終わってないかどうか」
Oracleの手が止まる。
街の音が、一瞬だけ遠くなる。
誰かの笑い声。
信号の電子音。
どこかの店から漏れる低いベース。
全部あるのに、その返答を待つ空白だけが静かだった。
やがてOracleは、視線を落としたまま言う。
「終わってると思ってた?」
「半分」
「半分」
「もう半分は、終わってないのに終わらせ方が分からないように見えた」
その言葉に、Oracleはすぐには返さなかった。
図星だったのかもしれないし、腹が立ったのかもしれない。
どちらでも、不思議はなかった。
ーーー
「Soilがいなくなってから」
Oracleがぽつりと言う。
それだけで、夜の輪郭が少し変わる。
その名前は、いまだに空気を一段冷やす。
「全部、ずれた」
Nomadは何も言わない。
「前に立つことも、歌うことも、できなくはなかった。やれって言われたらやったし。やるしかないとも思った」
少しだけ笑う。
「でも、違ったんだよね。私、組む側だったから」
その言葉は、Nomadにはよく分かった。
Oracleは前に立てないわけではない。
ただ本質がそこではない。
彼女は、音を配置し、意味を編み、全体を成立させる人間だ。
ばらばらのものに構造を与える人だ。
「歌ってると、余計に分かった」
Oracleは続ける。
「穴が空いたままだって」
Nomadは、ようやく自分の言葉を置く。
「だから見てた」
「何を」
「その穴が、もう埋まらないのか。それとも、別の形になるのか」
Oracleはそこで初めて、まっすぐNomadを見た。
「埋める気なの?」
「埋めるっていうより、組み直す」
その返答に、彼女の目がわずかに揺れた。
Soilの代わりを、とは言わない。
欠けた場所を無かったことにする、とも言わない。
ただ、壊れた構造を、そのまま別の形に組み直す。
それは、いまのOracleにとって一番拒否しにくい言い方だった。
ーーー
「この前の人」
Nomadが言うと、Oracleの呼吸が少しだけ変わった。
ほんの少し。
でも、観測していた人間には分かるくらいには変わった。
「見てたんだ」
「見えてた」
「どこまで」
「立ち止まって、座って、変って言って、もう一曲って言ったところまで」
Oracleが眉を寄せる。
呆れ半分、諦め半分の顔だった。
「本当に趣味悪い」
「褒め言葉?」
「違う」
けれど、そのあとに続く沈黙は、前ほど硬くない。
隠したいのに、完全には隠しきれない。
そういう沈黙だった。
「……変わった?」
Nomadが訊く。
Oracleはすぐには否定しなかった。
それだけで十分だった。
「少し」
やがて小さく言う。
「まだ、何なのかは分からないけど」
その言い方に、Nomadは内心で確信した。
良い。
これは一時の気まぐれではない。
音の向きが変わっている。
しかもOracle自身が、それを嫌がっていない。
「名前は?」
「知らない」
「連絡先は?」
「ない」
「それでよく、少し変わったとか言えるね」
そこでようやく、Oracleがはっきりと笑った。
「うるさい」
それは数少ない、ちゃんと生きた笑いだった。
ーーー
「バンドを組もう」
Nomadは、街のざわめきの中で、まるで機材の確認をするみたいな声で言った。
Oracleは一拍、黙る。
「雑だね」
「考えてはいた」
「いつから」
「かなり前から」
それは嘘ではなかった。
3Pの頃から、NomadはOracleの才能を見ていた。
前へ出ないのに、中心を作れる人間。
感情ではなく構造で音楽を立たせられる人間。
壊れたあとも、なお音の側に残ってしまう人間。
そういう人と、いつか何かをやりたいと、ずっと思っていた。
だが、その“いつか”は、Soilの死でいったん消えた。
誘うこと自体が暴力になる時期もあった。
だから待った。
見た。
それでもなお、終わっていないと判断した今、言うしかなかった。
「今すぐ返事しろって話じゃない」
Nomadは続ける。
「でも、ひとりで持ち続けるには重すぎるだろ」
Oracleは、その言葉に視線を落とした。
否定できない時の顔だった。
「……ひとりのほうが楽なこともある」
「ある」
「合わせなくていいし」
「うん」
「失う数も増えないし」
そこまで言って、彼女は少しだけ黙った。
自分で言って、自分でその痛さを確かめたみたいに。
Nomadはそこで、無理に慰めない。
「でも」
静かに言う。
「ひとりだと、組めないものもある」
その言葉は、Oracleにだけ向けたものだった。
歌い手ではなく、構成者である彼女に対して。
単独では成立しない構造がある。
複数でしか鳴らない音がある。
それを一番知っているのは、たぶんOracle自身だった。
ーーー
「この前の人も、入る前提で話してる?」
Oracleがふいに言う。
Nomadは少しだけ笑う。
「まだ何も決まってない」
「決める顔してる」
「してた?」
「してる」
その返答に、Nomadは否定しなかった。
あの夜、ariaが立ち止まった瞬間。
Oracleの音は、閉じた残響から、誰かへ返ってくる音へ変わり始めた。
だったら、あれは偶然では終わらない。
終わらせるべきではない。
そうNomadは思っている。
「少なくとも」
彼は言う。
「君がまた誰かと音を組むところまでは見たい」
Oracleは、その一言に目を細めた。
「見たい、ね」
「うん」
「参加したい、じゃなくて?」
「最終的には、もちろんそっち」
少しの間。
それからOracleは、ケースのファスナーを閉じた。
「考える」
短い返答。
でも、拒絶ではない。
Nomadはそれで十分だと思った。
再起なんてものは、大抵このくらいの温度で始まる。
大きな宣言ではない。
まだ決めていないという言葉の中に、決める可能性だけが残る。
それでいい。
ーーー
別れたあと、Nomadは一人で駅へ向かった。
新宿の夜風は、少しだけ乾いていた。
街路樹の影、雑居ビルの明かり、酔客の声、遠くのサイレン。
どれも日常の一部なのに、今夜だけは妙に輪郭を持って見えた。
崩壊したあと、残るものがある。
失ったからこそ、ゼロから組み直すしかない夜がある。
そして、ごくまれに、そこへ新しい音が立ち止まる。
Nomadは歩きながら、あの女の顔を思い出す。
青い目。
変だと言い切る遠慮のなさ。
それでいて、嫌いじゃないと残していく温度。
Oracleの音を、傷に触れずに揺らした人。
まだ名前もない構造が、どこかで動き始めている。
そんな気がした。
彼は端末を取り出し、短いメモだけを残す。
Oracle。
継続可能。
位相変化あり。
要因不明、ただし女性シンガーの介入後に顕著。
再構築案、保留のまま前進。
送信はしない。
自分だけの記録として閉じる。
Nomadは昔から、確信した時ほど静かだった。