電話が鳴った時、Shadow はゲームセンターの奥にいた。
いつものフロア。
いつもの明るさ。
いつもの過剰な電子音。
反復するデモループ、判定音、ランキング表示、失敗音、クリア音。
どれも意味を持たないようでいて、考えたくないことを薄めるにはちょうどいい。
その夜も、Shadow は同じようにそこにいた。
そして、同じようにその少し後ろに、Serow がいた。
二人が一緒にいることに、まだ名前はない。
待ち合わせでもない。
約束でもない。
ただ、最近は来る時間が近くなっていて、
顔を合わせるとそのまま少しだけ同じ空間にいるようになった。
それだけだ。
Serow は Shadow の少し横で、別の筐体のデモ画面を見ていた。
実際には見ているふりで、半分以上は Shadow の手元や空気の変化を拾っている。
それを Shadow ももう知っている。
「今日、静かですね」
Serow が言った。
「ここでそれ言うか」
Shadow は視線を画面へ向けたまま返す。
「音の量じゃなくて」
「分かってる」
短いやり取り。
だが、その短さの中に最近の慣れがある。
Shadow は一曲を終えて、結果画面を流し見た。
数字は悪くない。
でも興味は薄い。
その時だった。
ポケットの中でスマホが震えた。
Shadow は最初、無視しようと思った。
この時間に連絡してくる相手は多くない。
急ぎならまた鳴る。
そう思った。
だが取り出して画面を見た瞬間、指が止まる。
Oracle。
その名前だけで、ゲームセンターの音が一段遠くなった。
Serow はその変化にすぐ気づく。
「……どうしました」
Shadow は答えない。
ほんの一瞬だけ迷ってから、通話ボタンを押した。
「何」
出た声は、自分でも少し硬いと思うくらい短かった。
だが返ってきたのは Oracle の声ではなかった。
『俺だ』
Nomad。
Shadow の眉がわずかに動く。
「何でお前が出る」
『借りた』
「意味分からん」
『今、箱にいる』
「だから何だ」
その言い方は、拒絶というより防御に近かった。
自分でも分かる。
Oracle の名で電話が来て、Nomad が出て、そして箱にいると言う。
それだけで、近づきたくない輪郭がいくつも見え始めてしまう。
『来い』
Nomad が言う。
Shadow は無言になる。
あまりにもいつも通りで、あまりにも最悪な一言だった。
「行かない」
即答する。
だが Nomad は引かない。
『まだ鳴ってない』
「は?」
『今から鳴る』
「何の話だ」
『説明は後だ。来て、聞け』
ゲームセンターの騒音の中で、その言葉だけが異様に輪郭を持つ。
来て、聞け。
弾け、ではない。
戻れ、でもない。
まず聞け。
Shadow はそれが妙に嫌だった。
嫌なのに、切るには少し強すぎた。
「何がある」
低く訊く。
数秒、向こうが黙る。
それから Nomad は珍しく、少しだけゆっくり言った。
『止まったままのお前に、一回は届く音だと思った』
その一言で、Shadow は返事を失った。
Nomad はこういう言い方を滅多にしない。
もっと雑で、もっと命令的で、もっと短く済ませる。
なのに今は、説明にならないぎりぎりのところで、こちらが聞き捨てられない形にしてくる。
Serow は横で黙っている。
会話の内容は全部聞こえない。
だが、画面を見ていたはずの Shadow が、もう何も見ていないことだけは分かった。
『Oracle もいる』
Nomad が言う。
『それから、Aria も』
Aria。
その名は Shadow にとって初めてだった。
だが、知らない名であること自体が逆に引っかかった。
Oracle と Nomad が同じ箱にいて、さらにもう一人いる。
しかも、それを今、自分に聞かせようとしている。
嫌な予感しかしない。
「……今どこだ」
ようやく Shadow が言う。
Nomad は箱の名前を告げる。
Shadow は知っている場所だった。
Oracle が前から出入りしていた箱の一つ。
もう長く近づいていないが、知らないわけではない。
『来るなとは言わない』
Nomad が最後に言う。
『でも、来ないままだと、たぶん後で面倒だ』
「脅しか」
『観測だ』
それだけ言って、通話は切れた。
Shadow はしばらくそのまま立っていた。
スマホを手に持ったまま。
結果画面はもう流れきって、デモへ戻っている。
周囲は相変わらずうるさい。
なのに、自分の中だけ急に別の場所へ引っ張られたような感じがする。
Serow が静かに訊く。
「……大丈夫ですか」
Shadow は、すぐには答えなかった。
大丈夫かどうかで言えば、たぶんよくない。
だからこそ、どう答えても嘘になる。
「呼ばれた」
ようやくそれだけ言う。
「誰に」
「昔の知り合い」
Serow は一歩だけ近づく。
踏み込みすぎない距離で。
「行くんですか」
その問いに、Shadow はすぐ答えない。
行かない、が正しいはずだ。
今さら。
急に。
しかも箱へ。
Oracle がいて、Nomad がいて、知らない Aria という名前があって。
近づかないと決めていた場所の輪郭ばかりだ。
だがその全部の下に、もっと厄介なものがある。
まだ鳴ってない。
今から鳴る。
止まったままのお前に届く音。
Nomad が、ああいう言い方をした。
それが気になる。
気になる時点で、たぶんもう駄目だった。
「……分からん」
Shadow は小さく言う。
「でも、たぶん行く」
Serow はその答えを、思っていたより真面目に受け取った。
軽く「行きましょう」と言う感じではない。
今ここで、いつものゲーセン時間から別の何かへ切り替わったことを、ちゃんと感じた顔だった。
「じゃあ」と言いかけたが
内心、一人行く自信が無い。
誰か部外者を連れていき、よそよそしさを出せば、いくらか気が楽になると
思ってた矢先、
「僕も行っていいですか」
Shadow が視線を向ける。
「何で」
「何で、は難しいですけど」
Serow は少し困ったように笑う。
でも、目は逸らさない。
「今の電話のあと、一人でここに残るの、変な感じがするので」
「理由がふわっとしてる」
「はい。でも、たぶん今それで十分です」
その “たぶん” に、Shadow は一瞬だけ口元を動かした。
笑うほどではない。
だが、完全には否定しない時の動きだった。
「来ても何も分からんぞ」
「分からないのはいつもです」
「開き直るな」
「少しだけ」
そのやり取りのあと、Shadow はポケットへスマホを戻す。
決めたわけではない。
腹を括ったわけでもない。
ただ、もうこのままゲームの音に戻れる気がしなかった。
筐体の前に立っても、次のコインを入れる手は出ない。
反復の箱はまだそこにある。
でも、自分の時間だけが少しずれてしまった。
Shadow は小さく息を吐く。
「行くなら今だな」
「はい」
Serow が頷く。
店を出る。
外の夜風は、ゲームセンターの空気よりずっと冷たかった。
明るいのに、少しだけ現実味が強い。
人の流れも、ネオンも、車の音も、全部さっきまでと同じはずなのに、どこか違って見える。
Shadow は歩きながら、箱の名を頭の中で繰り返していた。
何が待っているのか分からない。
Oracle に会うこと自体、もうかなり久しい。
しかも、そこに Nomad がいて、Aria という知らない存在までいる。
自分がそこへ行って何になる。
そういう反発はまだ消えていない。
だが同時に、Nomad の言葉が耳から離れない。
一回は届く音だと思った。
それはずるい言い方だった。
ずるいからこそ、届くかもしれないと思ってしまう。
隣を歩く Serow は、珍しく静かだった。
いつもなら何かひとつは訊いてくる。
でも今は訊かない。
たぶん、自分でもこの空気の重さが分かっているのだろう。
その沈黙が、少しだけありがたかった。
箱の近くまで来たところで、Serow がようやく小さく口を開く。
「その人たちって」
少し迷ってから続ける。
「大事な人たち、なんですね」
Shadow はすぐには答えない。
大事、という言葉は簡単すぎる。
大きすぎるし、軽すぎる。
でも否定もできない。
「……面倒な人たちだ」
そう言うと、Serow は少しだけ笑った。
「それ、だいたいそういう意味ですよね」
「うるさい」
「はい」
それで会話は終わる。
地下へ続く細い通りの前で、Shadow は一度だけ立ち止まった。
見慣れたようで、遠くなった入口。
昔なら何でもなく降りていた階段。
今はそこに、かなり古い時間が詰まっている気がする。
でも、その横で Serow が何も言わずに立っているのを見て、Shadow は少しだけ肩の力を抜いた。
「お前」
「はい」
「中で黙って見てろ」
「はい」
「分からなくても勝手に納得するな」
「難しい注文ですね」
「そういう日だ」
Serow は小さく頷いた。
その頷き方が妙に素直で、Shadow はそれ以上何も言えなくなる。
二人は階段を降りる。
地下の空気が少しずつ近づく。
木とケーブルとアンプの匂い。
薄い低音。
話し声。
まだ鳴っていない何かの前触れ。
Serow はただの観客として、その場へ入っていく。
まだ弾けない。
まだ何者でもない。
黒いギターを持っていることも、誰にも知られていない。
それでも今夜この場にいること自体が、たぶんあとで意味を持つ。
そして Shadow は、止まった時間のまま、その地下へ戻っていく。
戻りたいからではない。
Nomad に呼ばれたからでも、Oracle の名が出たからだけでもない。
まだ鳴っていない音が、自分に届くと言われてしまったからだ。
それが本当かどうか、確かめるために。