Real 第17話『偶然の形をしていた構造』


音が切れたあと、箱の中は妙に静かだった。

完全な静寂ではない。
アンプの微かな残り。
ケーブルの擦れる音。
客席の誰かが息を吐く気配。
グラスを置く小さな音。
地下特有の空調の低い唸り。

それでも、さっきまでそこにあったものに比べれば、十分すぎるほど静かだった。

誰もすぐには動かなかった。

最初に大きく動いたのは、観客でもスタッフでもなく、Serow だった。
といっても、立ち上がるでも、声を出すでもない。
ただ、さっきまで無意識に握っていた自分の手を、少し遅れて開いただけだ。

気づけば、指先に力が入っていた。

客席から見ていただけなのに。
いや、見ていただけだからこそ、余計にそうなったのかもしれない。

自分はまだ弾けない。
少なくとも、人に見せられるほどには。
ここにいる四人と並べるような位置には、到底いない。

それなのに、胸の奥ではっきりしたものが一つだけある。

ああいう音のそばへ行きたい。

それは、憧れというより、もっと厄介だった。
ただ凄かった、だけでは済まない。
見てしまった以上、もう知らないふりができない種類の感覚だった。

ステージの上では、Aria が最初に口を開いた。

「So」

短い一言。
それだけで、さっきまで音に預けていた空気が、少しずつ言葉の側へ戻ってくる。

「……何」
Oracle が言う。
まだ鍵盤から完全には離れないままの声だった。

Aria はギターを抱えたまま、小さく肩をすくめる。

「You know now.」
「何を」
「That one」

Oracle は少しだけ眉を寄せる。
分かっていて、分からないふりをしている顔だった。

Nomad がベースを下げながら、低く言う。

「言わせるな」
「お前までそれ言うの」
Oracle が返す。
「言わせたくないなら、先に認めろ」
「感じ悪いな」
「今さらだろ」

Shadow はドラムの前に座ったまま、そのやり取りを聞いていた。
昔なら、こういう会話の流れはもう少し棘があった気がする。
あるいは逆に、冗談で薄めすぎていたかもしれない。

今は違う。
笑いに逃がさない。
でも、壊しもしない。
そのぎりぎりの位置で、四人とも踏みとどまっている。

「……最初から、そういうつもりじゃなかった」

Oracle がようやく言う。

それは言い訳の形をしていた。
けれど、ただの言い訳ではなかった。
本音でもある。

「一人でやるつもりだった?」
Aria が訊く。

「そこまで綺麗でもない」
Oracle は少し考えてから続ける。
「ただ、途中のまま持っておくつもりだった。
固めないで、誰にも渡さないで、自分の中だけで止めとく感じ」

「いつもの悪い癖だな」
Nomad が言う。
「うるさい」

Shadow がそこで初めて、小さく言った。

「でも、止めとくにはもう遅いだろ」

その声は大きくない。
けれど、その場の全員がきちんと聞くには十分だった。

Oracle は視線を上げる。
Shadow の方を見る。

Shadow は目を逸らさない。
真正面でもないが、逃げてもいない。
それだけで、Oracle には妙に重かった。

「お前が入った時点で、たぶん終わってる」
Shadow は続ける。
「終わってるっていうか、もう一人分じゃない」

Oracle は返事をしなかった。
否定できなかったからだ。

それを聞いた Aria が、少しだけ目を細める。

「See?」
またそれを言う。

「今日はそれ好きだね」
Oracle が言う。
「Because true」

Nomad は、そのやり取りの横で機材のケーブルを外しながら口を開く。

「偶然にしては、出来すぎてる」
「何が」
Oracle が言う。

「全部だ」
Nomad は短く返す。
「路上で会ったことも。
箱に連れてきたことも。
今の並びも。
どれも偶然の形をしてるが、中身はもう違う」

その言い方に、Oracle は少しだけ黙る。
Aria は静かに聞いている。
Shadow はスティックをケースに戻しながら、何も言わない。

偶然の形をしている。
中身は違う。

それはたぶん、今夜を一番よく表していた。

たしかに全部、偶然と言えば偶然だった。
新宿で出会った。
何度か会った。
Nomad が勝手に割り込んだ。
箱に連れてこられた。
Shadow が呼ばれた。
Serow がたまたま一緒にいた。
順番に並べれば、いくらでも偶然に見える。

だが、いま鳴ってしまったもののあとでは、もうその説明だけでは足りない。

Aria がギターをケースへ戻す前に、ふと Oracle を見る。

「You wrote it before tonight.」(前から書いてあったんでしょ)

確認ではない。
ほとんど断定だった。

Oracle は少しだけ困った顔になる。

「……断片だけ」
「でも、あった」
「まあ」
「Then tonight was not beginning from zero.」(今夜はゼロからスタートしたわけじゃない)

その一言に、Oracle は小さく息を詰める。

ゼロからじゃなかった。
たしかにそうだ。

今夜急に全部が生まれたわけじゃない。
路上で何度も音を交わしていた。
言葉にならないまま、誰かの声を前提にした線を書きかけていた。
Nomad は外から見ていた。
Shadow は止まった時間の中で、まだ消えていない部分を抱えていた。
そして今夜、それが一度だけ正しい順番で噛み合った。

ゼロから始まったのではない。
ばらばらのまま散っていたものが、今夜ようやく線として見えただけだ。

「……嫌な言い方するなあ」
Oracle が言う。
「でも合ってる」

「合ってるなら十分だ」
Nomad が返す。

Shadow は、そこで少しだけ乾いた笑いを漏らした。

「相変わらずだな、お前」
「何が」
Nomad が言う。
「人に認めさせる時だけ最短で来る」
「遠回りしても無駄だからな」
「雑」
Aria が小さく混ざる。
「助かることもある」
と Shadow が続けた。

その言葉に、場の空気がほんの少し変わった。

Oracle はそれを聞いて、Shadow の方をまた見た。
今の一言は、かなり大きい。
助かった。
あの Shadow が、今の夜に対して、そういう温度の言葉を出した。

本人もたぶん分かっている。
だからそれ以上は言わない。
言わずに、ドラムの椅子から立ち上がる。

「……別に、戻るとかじゃないからな」
小さく言う。

誰に向けた言葉かは曖昧だった。
Oracle かもしれないし、Nomad かもしれないし、自分にかもしれない。

「知ってる」
Nomad が答える。
「今はそれでいい」

Aria も、そこで余計なことは言わない。
ただ短く頷くだけ。

その頷き方を見て、Serow は少し不思議に思った。
この人は、押し込まない。
でも、引きもしない。
必要なところだけ残して、それ以上は触らない。

だからこそ、さっきの音の中であんなに強かったのかもしれない。

Serow はそのまま客席の端に立っていたが、ふと Shadow と目が合った。
Shadow は一瞬だけ「ああ、いたな」という顔をする。
完全に忘れていたわけではないが、
今この瞬間まで半分くらいは意識の外へ置いていたような顔だ。

「……お前」
Shadow が言う。
「はい」
Serow が返す。

「帰ってないんだな」
「呼ばれて一緒に来たので」
「律儀だな」
「途中で帰る感じじゃなかったです」

その返しに、Shadow は少しだけ口元を動かす。
笑ったとまではいかない。
でも、否定する気もない顔だった。

Oracle は、そのやり取りを見ていた。
そして何となく分かる。
今夜、動いたのは自分たちだけではない。
Serow のような、まだ音の中へ入っていない人間の中にも、何かが確実に残っている。

それは今すぐ形になるものではない。
だが、たぶん後で効いてくる。
そういう種類の残り方だった。

スタッフが奥から「もう少しで次の準備入るよ」と声をかける。
現実の時間が戻ってくる。
機材を片づけ、場所を空け、地下の箱がまたいつもの運用へ戻る。

それでも、今夜鳴ったものまで通常運転へ戻るわけではない。

Oracle は鍵盤の電源を落としながら、静かに思う。

自分はたぶん、もう前みたいには一人で路上へ立てない。
立つことはできる。
弾くことも歌うこともできる。
でも、そこへ戻ったとしても、もう今夜以前の「一人」の意味にはならない。

構造に誰かが入ってしまった。
音の流れに、別の歩幅が混ざってしまった。
その事実を知ったあとで、一人を完全な一人として扱うことはできない。

それは不自由にも見える。
でも、実際にはたぶん逆だ。

今まで自分一人で抱えていたものの重さが、ようやく「自分だけの責任」ではなくなった。
そのことに、思っていた以上に救われている。

Aria がケースを閉じる。
Nomad はベースを背負う。
Shadow はドラムから離れ、まだほんの少しだけぎこちなく立っている。
Serow は客席側から、その四人を見る。

そしてその瞬間、誰も口にはしないのに、場に残る感覚が一つだけあった。

今夜のこれは、単発では終わらない。

約束したわけでもない。
次の予定を決めたわけでもない。
バンドだとも言っていない。
曲名もない。
編成も定義されていない。

それでも、偶発の顔をしたまま、もう構造へ入ってしまっている。

「……また、やるの?」

Serow が、ほとんど無意識みたいに口にした。

言ったあとで、自分でも少し驚いた顔になる。
四人の視線が一度だけ、こちらへ集まる。

少しだけ沈黙。

その沈黙を破ったのは Oracle だった。

「たぶん」

そう言ってから、すぐに自分で苦笑する。

「いや」
と、小さく言い直す。
「たぶん、じゃないかも」

Aria が、そこで小さく笑った。

Nomad は何も言わない。
だが、その沈黙はほとんど肯定だった。
Shadow は視線を逸らしながらも、否定しない。
Serow はその空気を受け取って、少しだけ目を見開く。

誰も宣言しない。
でも、もう充分だった。

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