Real 第19話『言葉にする前の輪郭』


喫茶店の灯りは、地下の箱よりずっと柔らかかった。

さっきまで音で埋まっていた耳が、今はカップの触れる小さな音や、
店内の低い話し声をゆっくり拾っていく。
向かいには Aria がいる。
路上でもなく、箱でもなく、こうして座って向かい合うと、また少し別の人に見えた。

強い。
けれど押しつけない。
近い。
けれど踏み込みすぎない。
その距離感の作り方が、Oracle には妙に心地よかった。

「So」
Aria が静かに言う。
「Your turn first.」

Oracle は、苦笑に近い息を吐く。

「順番決まってるんだ」
「You invited me.」
「それはそう」

カップを持ち上げ、少しだけ口をつける。
温度が落ち着くまでの短い間に、どこから話すべきかを探す。

Soil のこと。
3P のこと。
壊れたあと、一人になったこと。
何をどこまで言うか。
全部をいきなり出したくはない。
でも、誤魔化しすぎると、今日ここに座った意味が薄くなる。

「……前に、バンドをやってた」
Oracle はようやく言う。
「大学の頃。三人で」

Aria は黙って頷く。

「私はキーボードで、でも構成も結構やってた。
曲の流れとか、どう鳴らすかとか、そういうのを組む方」
「I know」
Aria が言う。
「You still do.」

Oracle は少しだけ笑う。

「うん。たぶんそこは変わってない」
それから、少しだけ視線を落とす。
「でも、中心にいたのは別の人だった。
ギターと歌。……女の子」

Aria は、その一言で少しだけ表情をやわらげる。
事情を察した、というより、その先を急がないと決めた顔だった。

「大事な人だった?」
Aria が訊く。

Oracle は、すぐには答えなかった。
“大事”では足りない気もするし、他の言葉を使うと違ってしまう気もする。

「……そうだね」
ようやく言う。
「すごく。だから、いなくなった時に、全部の置き方が分からなくなった」

Aria は頬杖をついたまま、静かに聞いている。

「バンドも、音も、私と Shadow の距離も。
何をどう続けたら裏切りじゃないのか、分からなくなった」
Oracle は続ける。
「で、結局ばらばらになった。」
「私は一人で路上に出て、Shadow は音から離れて…」
「今日までずっと、どこか止まったままだった」

店内の灯りが、カップの縁に細く反射する。
Aria はそこで初めて、小さく口を開く。

「The girl.」
「うん」
「You still write around her.」(まだ彼女のそばで書いているのね)

断定だった。

Oracle は、一瞬だけ息を詰める。
否定する意味がなかった。

「……そうかもしれない」
「Not only around her.But from there.」

そこから。
その言い方が、妙に正しかった。

全部が彼女のため、ではない。
今の自分は今の自分だ。
Aria に向けて書き始めた断片もある。
路上で得たものもある。
Nomad や Shadow の不在と再会もある。

でも、始点はそこだ。
喪失した中心のまわりから、自分の構造はずっと組み直され続けていた。

「あなたは」
Oracle が少しだけ身を乗り出す。
「そういうの、どうして分かるの」

Aria は少し笑う。
でも、いつものような軽い笑いではない。

「Because you don't hide in the sound.」(音の中に隠れないから)
「え」
「Hide with structure, yes. But not in the sound itself.
音の中には、ちゃんと残ってる」

Oracle は、その言葉を胸の中でゆっくり受け取る。

構造で隠している。
たしかにそうだ。
配置して、整えて、流れを作って、感情そのものは前に出しすぎない。
でも、音の中には残っている。
それを Aria は、路上でも箱でも見ていた。

「……そっか」
小さく言う。
「じゃあ、結構ずっとバレてたんだ」
「A lot.」
Aria は少しだけ目を細める。
「でも bad じゃない」

そこで、Oracle はようやく少しだけ肩の力を抜いた。
全部を知られているわけではない。
でも、音の中に残っているものを、無理に消さなくていいのだと感じられる。

「あなたは?」
今度は Oracle が訊く。
「あなたも、何かあるでしょ。
holding back の音が分かる理由」

Aria は、視線をカップへ落とした。
ほんの数秒。
その間に、店の奥で誰かが小さく笑う声がした。

「……ある」
短く言う。
「でも、まだ全部は話さない」

Oracle は頷く。
その答えを、物足りないとは思わなかった。

「じゃあ、話せる分だけ」
と言う。

Aria は、その言い方に少しだけ救われた顔をした。
本当に、ほんの少しだけ。

「前に、私は歌う人だった」
Aria が言う。
「今もそう。
でも、ずっとそうじゃなかった」

Oracle は黙って聞く。

「誰かの前で歌うより、誰かが求める形で歌う方が多かった」
Aria の日本語は少し遅い。
でも、そのぶん言葉を切らない。
「それが悪いってわけじゃない。
でも、気づくと、自分の声より“必要な声”になってた」

Oracle はそこで、少しだけ目を上げた。

「だからギターだけの日があるの?」
Aria は頷く。
「うん。
ギターだけの方が、まだ私のままの時がある」

その一言に、Oracle は妙に納得してしまう。

声は、誰かに求められる。
言葉は、意味に回収される。
でも楽器だけなら、その前の揺らぎをまだ残せる。
Aria のインストが、歌っていないのに歌っているように聞こえる理由が、
少しだけ見えた気がした。

「じゃあ」
Oracle が静かに言う。
「今日、箱で歌わなかったのは」

Aria はすぐに答える。

「今日は、あなたの音を先に見たかった」
「私の?」
「うん。
私が入る前に、どこまで線があるか」

Oracle は、少しだけ目を見開く。
その返答は想像していなかった。

「それで?」
「思ってたより、もうあった」
Aria は言う。
「だから、少し嬉しかった」

その一言が、Oracle の胸の奥へ静かに落ちた。

嬉しかった。
Aria が、そう言う。
音の話で。
自分の線に対して。

それは曲のことでもある。
でもそれだけじゃない。
たぶん、今ここで向かい合っていること全体にも、少しだけかかっている。

Oracle は、ノートを開く。
書きかけの言葉。
途切れた文。
いくつも消した跡。
まだ曲ではない、曲の手前のもの。

「見せてもいい?」
と訊く。

Aria は少しだけ笑う。

「That was the point, right?」(それがポイントだったんだね)
「……そうかも」

Oracle はノートを回す。
Aria が身を乗り出す。
テーブルの間の距離が少しだけ縮まる。

「まだ本当に断片だよ」
「Good. Finished things are harder to touch.」(良かった。完成したものは壊れにくい)

Aria はページを見ながら、ところどころで指を止める。
文字を追うというより、流れを見ている。
どこが詰まり、どこが先へ行こうとして止まったのかを、見抜こうとしている。

「ここ」
と、ある一行を指す。
「This wants to open more.」(これは、もっと解放したいね)

Oracle は、自分でもそこが引っかかっていた場所だと分かる。
一人で書いていると、どうしても閉じたまま整えてしまう。
でも Aria は、そこを迷わず見つける。

「あと、ここは」
また別の箇所へ触れる。
「You are protecting the line too much.」(ラインを守りすぎ)

守りすぎている。
それも、痛いほど分かる。

「……あなた、本当に容赦ないね」
Oracle が言う。
「You asked」
「そうだけど」

でも、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、そのくらいの言い方でないと、たぶん自分はここまでノートを開けなかった。

二人でノートを見ながら、少しずつ断片を繋いでいく。
言葉を削る。
残す。
意味を足しすぎない。
でも熱だけは逃がさない。
その作業は、会話であり、共同作業であり、たぶんかなり親密なものだった。

時間が少し経った頃、Aria がふと顔を上げる。

「ねえ」
「うん?」
「今日の箱」
「うん」
「あなた、嬉しかったの半分って言ったよね」
Oracle は目を瞬かせる。
「……覚えてたんだ」
「I listen.」

そして、Aria は続ける。

「もう半分は、たぶん怖かった。でもその怖さ、前の怖さと違う」

Oracle は言葉を探す。
少しだけ時間がかかる。

「……うん」
ようやく言う。
「前は、失うのが怖かった。今は、変わるのが怖い」

Aria はゆっくり頷く。

「That is better.」

良い怖さ。
変わる怖さ。
それは、止まったままの恐怖とは違う。
前へ進んだ時にだけ出る種類のものだ。

Oracle は、その言葉を聞きながら、初めて今夜の自分の感情に名前がついた気がした。

喪失ではなく。
停止でもなく。
変化への怖さ。

それなら、たしかに少しだけ希望に近い。

店を出る頃には、夜は少し深くなっていた。
ノートの数行は変わり、何より Oracle 自身の中の線が少し先まで伸びていた。

そして、Aria のことも、まだ全部ではないにせよ、前よりは確かに知った。
誰かに求められる声から、自分の声を取り戻そうとしている人。
ギターだけの日を必要とする人。
音に対してだけは、説明より先に本音を置く人。

店の外へ出て、少しだけ並んで歩く。

「今日は、ありがとう」
Oracle が言う。

Aria は少しだけ首を傾げる。

「For tea? For the song? For listening?」
「……全部」
Oracle が言う。

Aria は笑う。
やわらかく。
今日いちばん、素の顔に近い笑い方だった。

「Same」
とだけ返す。

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