Soilがいなくなってから、Shadowの時間は前へ進まなくなった。
生きてはいる。
食べる。
寝る。
起きる。
外にも出る。
何も壊してはいない。
誰かに縋ってもいない。
けれど、音楽だけが、生活の中から綺麗に抜け落ちていた。
完全に嫌いになったわけではない。
むしろ逆だった。
近づくと、まだ痛い。
だから触らない。
触らなければ、少なくとも崩れない。
そんな保ち方しか、もう出来なかった。
夜の新宿のゲームセンターは、そういう人間を受け入れる。
まぶしすぎる照明。
絶え間なく鳴る電子音。
成功音。
失敗音。
リザルト。
ランキング。
周期的なデモループ。
誰かが勝って、誰かが負ける。
でも、その一つ一つに人生の意味までは乗っていない。
そこがよかった。
ドラムは違う。
一打一打に体温が乗る。
間合いがある。
一緒に鳴らす誰かがいる。
良くも悪くも、ひとりで完結しない。
だが筐体は違う。
叩けば返る。
入力すれば反応する。
失敗しても、決められた音が鳴る。
成功しても、決められた光が返る。
そこには人の不在がある。
だから楽だった。
ーーー
Shadowは、リズムゲームの前に立っていた。
何度目かも分からない。
同じ曲。
同じ譜面。
同じような照明。
同じような姿勢。
画面の中では難度が上がったり、エフェクトが増えたりしているのに、
体の中は少しも動いていない。
うまい、のだと思う。
周りから見れば。
反応は速い。
精度も高い。
癖も少ない。
スコアも出る。
それでも本人には、何も残らない。
叩いている、というより処理している。
リズムに乗っているのではなく、ズレを消している。
心拍を上げるためではなく、余計な思考を黙らせるために続けている。
そんな叩き方だった。
プレイを終えて、結果画面が出る。
高い数字。
どうでもいい数字。
画面の向こうで派手な演出が弾ける。
隣の学生が小さく感嘆の声を漏らす。
それもまた、どうでもよかった。
Shadowは無言で次のコインを入れた。
そこに残るもの
Soilが死んだあと、何が一番きつかったのか。
何度か考えたことはある。
答えはそのたび少し違う。
ステージかもしれない。
Oracleの顔かもしれない。
空になった楽屋かもしれない。
病院の白さかもしれない。
デビューの話が、そのまま意味を失っていく感触かもしれない。
でも、たぶん一番まずかったのは、音を出す理由が一度空洞になったことだ。
ドラムは叩ける。
技術は残る。
筋肉も感覚も消えない。
だが、何のために鳴らすのか、その中心だけが抜けた。
Oracleは構成を作る人間だった。
Soilは前へ出る人間だった。
自分は、その二つを身体で成立させる側だった。
三人でいる時だけ、あの形はちゃんと意味を持っていた。
その核がひとつ消えた。
残った二人で続けろと言われても、違うとしか思えなかった。
続けること自体が悪いわけじゃない。
実際、そうしようとした時期もある。
けれど、違うものを同じ名前で運ぶことに、どうしても身体がついていかなかった。
だから離れた。
逃げた、という言葉でもいい。
Shadow自身、その言い方を否定しない。
ただ、逃げた先がゲーセンだっただけだ。
路上のことは聞いている
Oracleがまだ路上に立っていることは、知っていた。
直接見に行ったわけではない。
だが、狭い。
インディーまわりの人間関係も、新宿界隈の話も、完全には切れない。
Nomadが何度も足を運んでいることも、なんとなく耳に入っていた。
あいつなら行くだろうな、と思った。
構造の匂いが残っているものを、放っておける性格ではない。
けれど自分は行かなかった。
理由は簡単だった。
見たら、多分戻りたくなる。
戻りたくなって、それでも戻れなかった時のほうが厄介だ。
だったら最初から近づかないほうがいい。
そういう臆病さを、Shadowはちゃんと持っていた。
クールに見えるとか、無口だとか、そういうことではない。
本当に大事なものに対しては、むしろかなり弱い。
壊れた後の形を直視するくらいなら、見ないままの方を選ぶ。
その程度には、人間くさい。
ーーー
その夜、三回目のプレイの途中だった。
見慣れた譜面。
見慣れたレーン。
タイミングも、配置も、ほとんど身体が覚えている。
なのに、ほんの一瞬だけ、音が遅れたように聞こえた。
実際には遅れていない。
画面も正常。
判定も正常。
スピーカーも壊れていない。
それでも、影のような一拍が後ろに残る。
Shadowの眉がわずかに動く。
次の小節でも、似たような感覚があった。
入力と音の間に、ほんのわずかに“見えない余白”が挟まる。
ズレではない。
処理落ちでもない。
むしろ逆で、あまりに正確すぎて、自分の体の方が遅れたみたいな感覚。
気持ちが悪い。
だが、それを気持ち悪いと思った瞬間、Shadowは少しだけ懐かしさも感じていた。
バンドの時のクリックではない。
生ドラムの揺れでもない。
けれど、“一人で叩いているのに完全には一人じゃないような感覚”だけが、妙に似ていた。
そこでコンボが切れる。
舌打ちひとつ。
大したミスではない。
だがその一音の乱れだけが、必要以上に神経に引っかかった。
曲が終わる。
結果画面。
自己ベストには少し届かない。
どうでもいい。
はずだった。
ーーー
「今の、わざとズラしました?」
横から声がした。
若い声だった。
まだ子どもではないが、大人とも言いきれない、あの途中の年齢の声。
Shadowが視線だけ向けると、細身の少年が少し離れたところに立っていた。
メガネ。
控えめな立ち方。
でも、目だけは妙に真っ直ぐだ。
ゲームセンターにいる人間の目というより、機械の癖を見ている人間の目に近い。
「ズラしてない」
Shadowが短く返す。
少年は少しだけ首を傾げる。
「でも、一個だけタイミング変でした」
「判定は普通だった」
「判定じゃなくて、鳴り方」
その言葉に、Shadowはほんの少しだけ相手を見る角度を変えた。
ふつう、そこを言うのはプレイヤーではない。
スコアでも精度でもなく、“鳴り方”と言う。
しかも、さっきの違和感を偶然ではなく現象として拾っている。
「お前、やるの」
「まあ、少し」
「少しでそこ見るのか」
「……見るっていうか、気になるんです」
言い方が控えめなわりに、引かない。
珍しい種類だ、とShadowは思う。
少年は視線を筐体へ戻して、少しだけ言い直す。
「なんか、きれいすぎたんです。だから逆に、一音だけ浮いた」
Shadowは何も返さない。
だが、内心では少しだけ驚いていた。
近い。
うまく言葉に出来なかった違和感を、そいつは別の角度からちゃんと掴んでいる。
技術ではなく、感覚の構造で見ている。
それが少しだけ面倒で、少しだけ嫌じゃなかった。
ーーー
「常連?」
少年が訊く。
「たまに」
「たまに、でそれ?」
「お前は」
「わりと来ます」
それだけ言って、少年は少しだけ笑う。
目立たない笑い方だった。
でも、場に慣れている人間の緩み方だった。
Shadowはふと、こいつがここにいる理由を考える。
ゲームが好きなだけかもしれない。
音が好きなのかもしれない。
機械が好きなのかもしれない。
その全部かもしれない。
どうでもいいはずなのに、少しだけ引っかかった。
「さっきの曲」
少年が言う。
「後半、少し呼吸みたいでした」
その一言で、Shadowの中の何かが止まる。
呼吸。
そうだ。
昔、自分のドラムをそう言った人間がいた。
正確じゃなくてもいい、でも生きている脈であれ、と。
それはSoilだったかもしれないし、Oracleだったかもしれない。
もしかすると、二人とも同じことを違う言葉で言っていたのかもしれない。
ゲーセンの雑音の中で、その記憶だけが急に鮮明になる。
うるさい場所なのに。
何も思い出したくない場所だったのに。
少年はそこまで言ってから、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「すみません。変なこと言いました」
「……いや」
Shadowはそれ以上、言葉を継げなかった。
その少年が去ったあとも、Shadowはしばらくその場を動かなかった。
周囲は相変わらず騒がしい。
画面は点滅し続ける。
スピーカーからは別のデモ曲が流れている。
誰かが後ろで勝ったらしい声を上げる。
全てがいつも通りで、だからこそ、今だけ少しおかしかった。
自分の叩いた音に、“呼吸”なんて言葉を向けられるのは久しぶりだった。
ただの入力処理。
ただの反復。
そう思っていた場所で、身体の残り火みたいなものを言い当てられた。
気分がいいわけではない。
むしろ少し腹立たしい。
そんなもの、もう要らないはずだったからだ。
でも同時に、完全に死んではいないのだとも思い知らされる。
ドラムをやめたわけではない。
やめたつもりで、触らないようにしていただけだ。
体の方は、まだ覚えている。
覚えているからこそ、こんな場所でまで、余計なものが漏れる。
Shadowは小さく息を吐く。
自分でも気づかないうちに、ゲーセンという箱の中へ、少しずつ音楽が染み出している。
あるいは逆に、ここで繰り返していた無機質な反復が、まだ残っている呼吸を炙り出したのかもしれない。
どちらでもよかった。
ただ、止まっていたはずのものが、完全停止ではなかったことだけが、少し気に障った。
ーーー
同じ夜。
たぶんOracleは、別の場所でまだ音を組んでいる。
Nomadはまた見に行っているかもしれない。
知らない女――ariaという名前を、この時のShadowはまだ知らない――は、
またどこかで誰かの音に遠慮のない言葉を投げているかもしれない。
そして自分は、ゲームセンターで、知らない少年に呼吸を見つけられている。
ばらばらだ、とShadowは思う。
Soilがいた頃には、こんな再起の仕方は想像もしなかった。
もっとちゃんとした形があると思っていた。
劇的で、分かりやすくて、誰が見ても“戻った”と言えるようなものが。
現実は違う。
路上で少しだけ音が変わる。
ゲーセンで一音だけ呼吸を言い当てられる。
誰かがそれを見ている。
誰かはまだ知らないまま通り過ぎる。
そんな断片ばかりが、先に積もっていく。
だが、もしかすると再構築とは、最初からそういうものなのかもしれない。
大きな宣言ではなく、
戻ると決めた一夜でもなく、
ただ、まだ終わっていない断片が、それぞれ別の場所で先に目を覚ます。