家に帰ってからも、Serowはしばらくケースを開けられなかった。
買った。
持って帰った。
そこまでは現実だ。
でも、部屋の床に置かれた黒いケースを見ていると、急に全部が一段だけ近くなる。
これは動画じゃない。
店の試奏でもない。
誰かの楽器でもない。
もう、自分のだ。
そう思うと、少しだけ怖い。
ゲームなら、コインを入れて始めればいい。
終われば結果が出る。
次に何を直すかも分かる。
機械はだいたい、正しい入力には正しい反応を返してくれる。
でもギターは違う。
さっき店で鳴らした一音だけでも、それは分かった。
こちらの曖昧さも、躊躇いも、下手さも、そのまま音になる。
誤魔化しが利かない。
それなのに、ケースの中身が怖いだけじゃないことも、Serowはちゃんと分かっていた。
嬉しいのだ。
かなり。
ようやくケースを開けた時、最初に思ったのは、やっぱり形がいい、だった。
黒い。
静かだ。
余計な主張がない。
でも、普通ではない。
無駄を削ったような輪郭。
少し未来っぽくて、でも冷たすぎない線。
Serowはそっと取り出して、膝の上に置く。
それだけで、また少し嬉しくなる。
理由は自分でも分かっていた。
音のことだけではない。
もちろん音もある。
持った時の収まりもある。
軽さも、扱いやすさもある。
でも、それだけじゃない。
「……ちょっと似てるんだよな」
独り言みたいに呟く。
Guitar Hero Arcade のコントローラー。
もちろん、そのまま同じではない。
子どもっぽい比較だと、自分でも思う。
あとで誰かに言ったら、たぶん笑われる。
Shadowならまず突っ込む。
お前その理由かよ、と、かなり真顔で言うはずだ。
でも、本人にとっては結構大事だった。
昔、アーケードのコントローラーを握って、画面の向こうの“演奏する側”に
擬似的に入るあの感覚が好きだった。
本物ではない。
分かっている。
それでも、ただ見るだけではなく、身体を通して音楽の側へ一歩入る感触があった。
黒い strandberg Essential を初めて見た時、その記憶が少しだけ反応した。
ああ、これ、触る側の形だ。
そんなふうに、身体が先に思ったのだ。
Serowは机の上にスマホを置き、動画を開く。
初心者向け。
持ち方。
チューニング。
ピックの角度。
座り方。
検索して、いくつか見て、でも途中で少し困る。
情報はたくさんある。
ありすぎる。
正しいことも多い。
でも今の自分に必要なのは、たぶん全部ではない。
頭から順に理解しようとすると、止まる。
それはShadowに言われた通りだった。
だからSerowは、最低限だけ見ることにした。
持つ。
鳴らす。
一本でいいから音を出す。
それだけ。
アンプに繋ぐ。
ケーブルが少し硬い。
どこまで差せば正しいのか、一瞬迷う。
チューナーの見方も怪しい。
ピックも落としそうになる。
全部ぎこちない。
けれど、そのぎこちなさ自体が少し面白い。
新しい機械を触る時のわくわくに似ている。
でも、もっと自分の側へ近い。
こちらの不器用さが、手順ではなく音として返ってくるからだ。
最初の一音は、店の時よりさらに不格好だった。
かすれる。
余計な弦が鳴る。
力が入りすぎる。
なのに肝心の狙った感じには全然ならない。
「うわ」
思わず声が出る。
笑うしかない。
もう一度。
今度は少し弱く。
でも弱すぎて、頼りない。
三度目。
角度を変える。
少しだけマシになる。
綺麗ではない。
ぜんぜん歌っていない。
動画で見た誰かの音とも、もちろん違う。
店で想像した“始まり”ほど格好よくもない。
それでもSerowは、そのたびに少しずつ目が離せなくなっていった。
押したら鳴る、ではない。
押し方、触れ方、迷い方、その全部で音が変わる。
だから一音ごとに、“あ、今のは少し違う”がある。
その小さな差分が、妙に面白い。
ゲームなら判定で切り分けられる。
でもこっちは違う。
良い悪い以前に、まず自分の手が何をしたかを耳で拾わないといけない。
そこが難しくて、だから面白かった。
しばらくして、Serowは一度ギターを膝に置いた。
左手の押さえ方も分からない。
コードなんて形でしか知らない。
右手も、どこをどのくらいで弾けばいいのか、まだ身体に何もない。
弾けない。
本当に、まだ何も弾けない。
でも、だから駄目だとは思わなかった。
むしろ逆で、ここからなのだと、初めて少し実感した。
見て分かった気になっていたことが、どれだけ入口だけだったのかも、少し分かる。
動画で見た綺麗なフレーズ。
ライブで聴いた自然な一音。
ゲームで追っていた“音に乗る感じ”。
その全部の手前に、こんな不器用で情けない時間がある。
それを自分の手で通らないと、たぶん本当には近づけない。
Serowは、もう一度黒いボディを見た。
やっぱり好きだと思う。
音がまだ思うように出なくても、形が手に馴染む感じがある。
自分にとって“始める道具”として、これでよかったと素直に思える。
Guitar Hero Arcade のコントローラーに似ている、なんて理由は、たぶん格好よくない。
でも、その“ゲームの中で触る側にいた記憶”が、今こうして本物へ手を伸ばす入口に
なっているのなら、それはそれで悪くない気がした。
ーーー
その週も、Serowはゲームセンターへ行った。
ケースは持っていかない。
当然だ。
まだ何も弾けない。
見せる理由もない。
何より、Shadowに言うのはまだ早い。
言ったら、少し形になってしまう。
それが嫌だった。
まだ、自分の部屋の中だけで起きている、小さな変化のまま持っていたい。
Shadowはいつも通り、無愛想に立っていた。
「来たのか」
「来ました」
「便利だな」
「便利です」
いつものやり取り。
でも、Serowの方には前回までと決定的に違うものがある。
もう、自分の指先は一度弦に触っている。
たったそれだけで、ゲームの見え方まで少し変わる。
筐体のボタン。
レーンの流れ。
判定のライン。
今まではそこに音楽の構造を見ていた。
今はそれに加えて、“実際に鳴らすのはもっと曖昧で面倒なものなんだろうな”
という感覚が混じる。
その変化をShadowが知るはずはない。
なのに、少しだけこちらを見る目が細くなる。
「何だよ」
Shadowが言う。
「いや」
「何か違う」
「そうですか?」
「知らん。でも少し」
Serowは一瞬だけどきりとする。
言っていない。
持ってもいない。
まだ何も見せていない。
それでも、この人はそういうところを雑に、でも外さずに拾う。
「気のせいじゃないですか」
そう返すと、Shadowは短く鼻で笑った。
「たぶんな」
その“たぶん”に、Serowは少しだけ救われる。
深掘りしない。
決めつけない。
でも、完全に流しもしない。
そういう距離が、今はちょうどよかった。
その日、Serowが筐体に入った時、前より分かることが少し増えていた。
上手くなったわけではない。
むしろ一時的に、少しぎこちないくらいだ。
身体が別の“触れ方”を知ってしまったせいで、今までの処理だけでは済まなくなっている。
後半で少し走る。
戻す。
雑な入り方をする。
でも前みたいに、それをただ判定で見るだけではない。
ああ、今のは力が入ってた。
今のは触り方が浅かった。
今のは少し怖がった。
ゲームなのに、そんなふうに自分の手を聴いている。
プレイを終えたあと、Shadowが言う。
「今日は少し濁るな」
Serowは少し驚いて笑う。
「分かるんですね」
「前より迷ってる」
「……そんなに出ます?」
「出るだろ」
それだけ言って、水を飲む。
本当に、余計な説明がない。
でもSerowには、その短さの方が逆にありがたかった。
自分の中で起きている変化が、気のせいではないと分かる。
触ったことは、ちゃんとどこかへ出るのだ。
ーーー
夜、また部屋でギターを出す。
まだ歌わない。
ariaのようにギターで歌うどころではない。
そもそもariaの名前すら、まだ知らない。
けれど、いつかそういう音に触れる未来へ、自分の指先だけが少し先に向き始めている。
一本弾く。
また一本。
前より少しマシ。
でも、まだ不格好だ。
それでも、嫌にならない。
不思議だった。
できないことは、ふつう少し悔しい。
でも今は、その悔しさの中に確かに楽しさがある。
知らないことが多い。
下手だ。
遅い。
それでも、触るたびに昨日と違う。
その小さな差だけで、しばらくは進める気がした。
ーーー
同じ頃。
Oracleの側では、ariaとの出会いが閉じた音の形を少しずつ変えている。
Nomadはそれを見ている。
Shadowはゲームセンターで、Serowの中に生じた微細なズレだけを拾っている。
そしてSerowは、黒い strandberg Essential を前に、まだ誰にも言わない
最初の音を重ねている。
全員はまだ合流しない。
けれど、土台はもう十分に動いている。
誰かが路上で少し変わる。
誰かが反復の箱の中で止まりきれなくなる。
誰かが最初の一本を買う。
誰かがそれを見ている。
構造というのは、たぶんこういうふうに、まだ名前がつく前から進行している。