楽器店の前で立ち止まった夜から、Serowは少しだけ変になった。
変になった、というのは悪い意味ではない。
今までは見れば済んでいたものが、見ているだけでは済まなくなった、という意味だ。
ゲームセンターでShadowに言われた言葉は、雑だった。
やればいいだろ。
最初は身体だろ。
理屈から入ると止まる。
たったそれだけだ。
丁寧な説明もない。
楽器を勧める熱意もない。
人生を変えるみたいな大げささもない。
なのに、妙に残った。
Serowはもともと、何でも少し遠くから見る癖がある。
音もそうだ。
ゲームもそうだ。
機械もそうだ。
構造を見て、流れを見て、どこが噛み合っているかを観察する。
そのやり方で、それなりに楽しくやってきた。
けれど今は、その“外側”の立ち位置が少しだけ足りない。
見て分かることと、触って初めて分かることは違う。
Shadowの叩き方を見たあと、その違いが急に重みを持ち始めた。
ーーー
次の休み、Serowは新宿の楽器店へ入った。
目的があるような、ないような顔で。
店員に話しかけられたら困るなと思いながら。
でも、外から眺めて帰るだけではたぶん何も変わらない、とも思いながら。
店の中は、ゲームセンターとは違う種類の緊張があった。
整然と吊られたギター。
壁の木目。
弦の匂い。
アンプの黒い面。
試奏室の小さな密閉感。
値札の現実感。
どれも、動画の中では平面的だったものだ。
画面越しでは、機材は情報になる。
けれど実物は違う。
重さがある。
幅がある。
首の細さも、ボディの癖も、持った時の身体の収まりも、全部こちら側へ迫ってくる。
Serowは一本ずつ見ていく。
王道っぽい形もある。
鋭い形もある。
派手な色もある。
けれど、どうにも身体が寄らない。
その中で、ふと視線が止まった。
黒。
派手ではない。
むしろ静かだ。
でも、形だけは少し普通じゃない。
無駄を削いだみたいなライン。
軽そうで、でも安っぽくない。
触ったら、自分の身体の方が合わせにいかされそうな形。
strandberg Essential。
Serowはその名前を、値札で初めてちゃんと読む。
知ってはいた。
見たこともある。
けれど今は、知識ではなく、妙に手が伸びる。
ーーー
「試しますか?」
声をかけられて、Serowは少し肩を跳ねさせた。
店員は慣れた顔で笑っている。
押しつける感じではない。
逃げ道もくれている顔だ。
「……大丈夫です」
と一度は言いかけて、止まる。
見て帰るだけなら、たぶん今日までと同じだ。
また外側のままだ。
「いや……持つだけ、でもいいですか」
「もちろん」
そうして渡された黒の strandberg は、思っていたより軽かった。
だが、軽いだけではない。
妙に収まりがいい。
変わった形のはずなのに、身体のどこにも無理が来ない。
むしろ、“正しい位置に来い”と向こうから言われているみたいに落ち着く。
Serowは少し驚く。
ギターというものは、もっと無骨で、もっと“抱える”ものだと思っていた。
でもこれは違う。
構えた瞬間に、身体の線が少し変わる。
「弾いたことは?」
店員に訊かれ、Serowは正直に答える。
「ほぼないです」
「じゃあ、音だけ出してみます?」
「……音、出るかな」
「出ますよ。だいたい最初は出ます」
その言い方が少しおかしくて、Serowは小さく笑った。
アンプに繋ぐ。
ピックを渡される。
弦に触れる。
当てる角度も、力加減も分からない。
それでも店員に言われるまま、一本だけ鳴らす。
不格好な音だった。
綺麗ではない。
動画みたいでもない。
もちろん、誰かの演奏みたいでもない。
でも、その一音が出た瞬間、Serowは少しだけ黙った。
出た、と思う。
頭ではなく、体の方で。
ゲームの入力とは違う。
ボタンを押せば決められた音が返る世界ではない。
こっちは、こちらの曖昧さごと音になる。
下手さも、角度も、躊躇いも、そのまま鳴る。
それが少し怖くて、少し面白かった。
ーーー
その日は結局、買わなかった。
勢いだけで持って帰るには、高い。
それに、本当に必要なのか、自分でもまだ測り切れていなかった。
だから一度、店を出た。
出たのに、足が軽くならない。
むしろ逆で、店を出たあとからの方が、指先にさっきの一音が残る。
未完成で、情けない音だった。
でも、あれは確かに自分が触って出した音だった。
画面越しではない。
誰かのプレイでもない。
解説でも、レビューでもない。
自分の手で、弦に触って、鳴った音だ。
Serowは駅前を歩きながら、自分でもよく分からない焦りを感じていた。
始めるべきなのか。
まだ早いのか。
似合うのか。
続くのか。
そんな理屈が頭の中ではぐるぐる回る。
けれど、その全部の下に、もっと単純な感覚がある。
もう一回、触りたい。
その気持ちがある時点で、たぶん答えは半分出ていた。
ーーー
次にゲームセンターでShadowに会った時も、Serowはその話をすぐにはしなかった。
言うと何かが決まりそうで、少し嫌だった。
まだ自分だけの、曖昧な熱のまま持っていたかった。
Shadowはいつも通りで、少し無愛想で、でも前よりは会話が切れない。
「来たのか」
「来ました」
「便利だな、その言葉」
「気に入ってるんで」
そんなやり取りをしながら、Serowは横目で手を見る。
Shadowの手は、相変わらず待ち時間にも何かを刻みそうな手だった。
無意識にリズムが残る人の手だ。
自分の手はどうだろう、とSerowは思う。
まだ何も残っていない。
でも、数日前に黒いギターを持った時、少しだけ“収まる場所”がある気がした。
それだけで、前よりは自分の指を見る目が変わっている。
「何だよ」
Shadowが言う。
「いや」
「いや、じゃない顔してる」
「ちょっとだけ」
「何が」
「指、見てました」
Shadowは怪訝そうな顔をしたあと、小さく息を吐く。
「変なやつだな」
「よく言われます」
「自覚あるのか」
「あります」
それ以上、Serowは言わない。
まだ、言葉にするほど形になっていない。
けれどShadowも、無理に聞かない。
そこが少しだけありがたかった。
ーーー
その後、Serowは何度か楽器店へ行った。
同じ黒の strandberg Essential を見る。
持つ。
少しだけ触る。
帰る。
また行く。
傍から見れば、優柔不断だろう。
でも本人の中では、それは必要な逡巡だった。
勢いだけで決めるのではなく、自分の身体が本当にそちらへ向くかを確かめている。
そして、まだ決定打が足りないことも分かっていた。
始める理由はある。
興味もある。
触りたい気持ちもある。
でも、“本格的にやりたい”とまで火が入るには、何かひとつ、
もっと深く刺さるものが必要だった。
その時のSerowは、まだ知らない。
それが、ずっと後に起きる全員の出会いの場で、ariaのギターによって来ることを。
動画の中で見たマテウス・アサトの演奏に感じていた、
あの「ギターで歌っている」感覚。
それを画面越しではなく、生身の距離で、目の前で見てしまう夜が来ることを。
そして、その瞬間に、今まで店で何度も持っては戻していた黒のギターが、
自分の中で初めて“選択”になることを。
今はまだ、前段階だ。
熱の予兆。
触れる前の指。
決意になる直前の身体。
けれど、物語の中で本当に重要なのは、たぶんこういう時期だ。
まだ始まっていないのに、もう始まりかけている時期。
ーーー
それは結局、急に来た。
ある日の夕方、Serowはまた店にいた。
同じ黒。
同じ形。
同じ収まり。
何度も見てきたはずなのに、その日だけは、迷い方が少し違った。
いつもの“どうしよう”ではなく、
“持って帰ったあと、自分は何を始めるんだろう”
という迷いだった。
それはもう、買うか買わないかの迷いではない。
買った先を考え始めた迷いだ。
店員が来る。
Serowは少しだけ息を吸ってから言う。
「これ、お願いします」
口にした瞬間、妙に現実感が薄かった。
何か大きい決断をした感じではない。
むしろ、ようやく身体の向きに言葉が追いついた、という感じだった。
ケースに収まった黒の strandberg Essential は、思ったより静かに見えた。
楽器なのに、騒がしくない。
目立つのに、うるさくない。
その感じが少し、自分に合っている気がした。
帰り道、ケースの重みは軽い。
けれど、自分の中での重さは今までと違う。
買ってしまった。
もう、見るだけには戻れない。
不安はある。
下手だろう。
指も痛いだろう。
コードも意味が分からないだろう。
続く保証もない。
でも、なぜかそれ以上に、少しだけ嬉しい。
新しいことを始める時の喜びというより、
自分の中で前から少しだけ鳴っていたものに、ようやく手を伸ばせた感じに近い。
Serowは家へ帰る途中、ケースの肩紐を少しだけ持ち直す。
ゲームのコントローラーとは違う。
機材のパーツとも違う。
これは、自分で音を鳴らすためのものだ。
その事実だけで、世界の見え方が少し変わる。
ーーー
その頃、別の場所では別の変化が起きている。
Oracleの音は、ariaと出会った夜を境に、少しずつ閉じ方を変えている。
Nomadはそれを見ている。
Shadowはその全部を知らないまま、ゲームセンターでSerowの空気の変化だけを感じている。
そしてSerowは、まだariaの名前すら知らないまま、黒いギターを抱えて帰っている。
ばらばらだ。
でも、ばらばらのまま、もう同じ未来の方へ少しずつ向いている。
全員が揃う前には、こういう静かな準備期間がある。
誰も全体像を知らない。
自分が何のためにそこへ向かっているのかも、まだうまく説明できない。
それでも身体だけが先に動く。
構造は、たぶんそうやって生まれる。