Real 第7話『言い残した輪郭』


夜のゲームセンターは、相変わらずうるさかった。

眩しい照明。
スピーカーの高い音。
筐体のデモループ。
結果画面の派手な演出。
誰かの歓声。
誰かの舌打ち。
全部が混ざって、頭の中を均一に削っていく。

Shadowは、その均一さがまだ少しだけ楽だった。

楽、というのは、気分がいいという意味ではない。
何かを考えなくて済む、というだけだ。
考えたくないことを、同じ明るさと同じ騒がしさで薄められる。
そういう場所だった。

だから来ていた。
ずっと。

その夜も、同じように筐体の前へ立ち、同じようにコインを入れ、同じように叩いた。
精度は悪くない。
癖も少ない。
結果もそれなりに出る。
でも、その数字に何かを感じることは、やはりなかった。

曲が終わる。

結果画面が出る。

その後ろから、聞き慣れた声がした。

「今日、少し荒いですね」

振り向かなくても分かる。
Serowだった。

「悪いか」
「悪いというか」
少し考えてから、Serowは言う。
「気分が、前に出てる感じです」

Shadowは水のボトルを取って、キャップを開ける。
一口飲んでから、ようやくそちらを見た。

「分かるのか」
「たぶん」

たぶん。
その便利な言葉を、最近はもう笑わなくなっていた。

Serowは前と同じように、近すぎない位置に立っている。
でも、前より遠くない。
その距離の詰まり方が、妙に自然だった。

「何かあったんですか」
「別に」
「その別には、だいたい何かありますよね」

言い方が柔らかいわりに、引かない。
Shadowは小さく息を吐いた。

「面倒なとこだけ育つな、お前」
「褒めてます?」
「違う」

Serowは少しだけ笑う。
その笑い方を見て、Shadowは何となくもう一曲やる気をなくした。

筐体から離れる。
壁際へ寄る。
自販機の横。
人の流れから半歩だけ外れた場所。
Serowもついてくるが、やはり一歩分は空けたままだった。

その空け方が、ありがたかった。

しばらく無言が続く。

ゲームセンターでは、黙っていても会話が止まった感じにならない。
周囲が勝手に埋めてくれるからだ。
そのことに、Shadowは昔から少し助けられていた。

「……やめたんですか」

Serowが唐突に言った。

Shadowは視線だけ向ける。

「何を」
「音楽」

真正面から来たな、とShadowは思う。
避け道を作る訊き方ではなかった。
だからといって責めているわけでもない。
ただ、そこにあると知ってしまったものを、そのまま置いておけない顔だった。

「やめた、っていうか」

言いかけて、止まる。

自分でも、その言葉がしっくり来ない。
やめた。
離れた。
逃げた。
置いた。
どれも少しずつ違う。

Serowは急かさない。
それでShadowは、珍しく続きを口にした。

「近づかなかった、の方が近い」

Serowの目が少しだけ動く。
聞き返しはしない。
その代わり、続きを待っている。

Shadowは壁にもたれて、視線を少し上へ逃がした。
天井の照明は白くて、冷たくて、どこまでも店の色だった。

「叩けなくなったわけじゃない」
小さく言う。
「むしろ逆だ。やれば、たぶん今でもそれなりに叩ける」

そこまで言ってから、口元が少しだけ歪む。

「だから面倒だった」

Serowは黙っている。

「できるのに、前みたいにはならない。
前みたいにしたくても、同じ理由では鳴らせない。
そういうのが、一番面倒なんだよ」

その言葉を出した瞬間、Shadowは少しだけ後悔した。
言いすぎた気もするし、足りない気もする。
中途半端に開けるくらいなら、黙っていた方がよかったかもしれない。

だがSerowは、安い慰めを返さなかった。

「前みたい、じゃないと駄目ですか」

静かな声だった。

Shadowはすぐには答えない。

駄目かどうか。
その問いは、ずっと自分でも避けてきた。
Soilがいた頃の音。
Oracleが組んでいた構造。
自分が叩いていた理由。
あの形を知ってしまったあとで、別の何かを鳴らすことは、裏切りなのか。
それとも、そう思っていた自分の方が止まっているだけなのか。

「分からない」

結局、そう言うしかなかった。

「でも」
Shadowは続ける。
「前の形を知ってると、違うものを始めるたびに、比較になる」

Serowはわずかにうつむいた。
たぶん、自分にはまだそこまでの過去がない、と感じたのだろう。
始まっていない人間には、失った形もまだない。

それでも彼は逃げなかった。

「比較になるのは、仕方ないと思います」

Shadowは少しだけ眉を動かす。

「でも、それで止まったままだと」
Serowは慎重に言葉を選ぶ。
「たぶん、前のものだけがずっと大きくなるじゃないですか」

その一言に、Shadowは返せなかった。

うるさい場所のはずなのに、その言葉だけ妙にまっすぐ入ってくる。
前のものだけが大きくなる。
たしかにそうだった。

触らない。
戻らない。
思い出さない。
そうやって避けているつもりで、実際にはずっとそこを中心に回っていた。
離れたのではなく、離れきれないまま周回していただけだ。

Serowは、そこまで言ってから少しだけ困ったように笑う。

「すみません。分かったふうなこと言いました」
「……いや」

Shadowは短く首を振る。

「お前、そういうとこあるな」
「ありますか」
「ある。変に核心だけ触る」
「嫌でした?」
「嫌なら、とっくに帰ってる」

それはほとんど肯定だった。
Serowも気づいたらしく、少しだけ目を細める。

「じゃあ、少しだけよかったです」
「調子に乗るな」
「はい」

そう返事をしながらも、口元は少し笑っていた。

また少し、沈黙が落ちる。

今度の沈黙はさっきより硬くない。
何かを言い終えたあとの沈黙だ。
空白ではなく、置かれたものの輪郭を互いに確かめている時間に近い。

Shadowは自分でも不思議に思う。
何でこんな話をしたのか。
相手はただの、ゲームセンターで何度か顔を合わせた少年だ。
過去を知っているわけでもない。
Soilのことも、Oracleのことも、何も知らない。

それでも、何も知らないからこそ言えたのかもしれなかった。

「お前は」

Shadowが言う。

「はい」
「まだ何も始めてない顔してるくせに、たまにもう始まりかけてる顔するな」

Serowは一瞬だけ固まる。
すぐにごまかすように視線を逸らした。

「何ですか、それ」
「そのままだ」
「分かりにくいです」
「じゃあいい」

Shadowはそれ以上追わない。
Serowも、追及されないことに少しだけ助けられた顔をした。

黒いケースのことは、まだ言わない。
楽器店に通ったことも。
部屋で不格好な一音を重ねていることも。
まだ自分の中で固まりきっていないものを、言葉にした瞬間に安くしたくなかった。

その気持ちは、Shadowにも何となく分かった。

「また来ますか」

帰り際、Serowが訊く。

Shadowは少し考えてから答える。

「たぶんな」
「じゃあ僕も、たぶん」
「便利だな、その言葉」
「まだ、ちょうどいいんです」

Shadowは小さく息を吐く。
呆れたようでいて、前ほど突き放した感じではなかった。

「そのうち便利じゃなくなる」
「そうなったら?」
「言い切るしかないだろ」

Serowはその言葉を、妙に静かに受け取った。
はい、とも、そうですね、とも言わない。
ただ小さく頷く。

たぶん今のは、ゲームセンターに来るかどうかの話だけじゃない。
Serowも分かっている。
Shadowも分かっている。

でも、まだそこまででいい。

始まりというのは、だいたいこういう曖昧さの中にある。
まだ言い切れない。
まだ名乗れない。
まだ誰にも明かしていない。
それでも、もう前の場所には完全には戻れない。

Serowが去ったあと、Shadowはひとりでしばらく立っていた。

店内はいつも通りうるさい。
画面は点滅し続ける。
誰かがまた筐体を叩いている。
反復の箱は何も変わっていない。

それなのに、自分の中では少しだけ違っていた。

音楽から離れていた輪郭を、ほんの少しだけ言葉にしてしまった。
それは再起でも決意でもない。
ただ、自分がどう止まっていたのかを、初めて少しだけ外へ出しただけだ。

その程度のこと。
でも、その程度のことが、止まった時間を動かし始めることがある。

Shadowは最後に一度だけ筐体の方を見て、それから店を出た。

夜風は少し冷たい。
新宿の雑踏は相変わらず落ち着かない。
けれど、耳の奥にはまだ、さっきの言葉が残っている。

前のものだけが、ずっと大きくなる。

たしかにそうだ、とShadowは思う。
そして、その大きさを知ったままでも、別の何かへ手を伸ばす人間がいることも、
もう知っている。

ゲームセンターの少年。
まだ何も言い切らないまま、少しずつそちらへ向いているやつ。

ああいう始まり方も、あるのかもしれない。

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