夜のゲームセンターは、相変わらずうるさかった。
眩しい照明。
スピーカーの高い音。
筐体のデモループ。
結果画面の派手な演出。
誰かの歓声。
誰かの舌打ち。
全部が混ざって、頭の中を均一に削っていく。
Shadowは、その均一さがまだ少しだけ楽だった。
楽、というのは、気分がいいという意味ではない。
何かを考えなくて済む、というだけだ。
考えたくないことを、同じ明るさと同じ騒がしさで薄められる。
そういう場所だった。
だから来ていた。
ずっと。
その夜も、同じように筐体の前へ立ち、同じようにコインを入れ、同じように叩いた。
精度は悪くない。
癖も少ない。
結果もそれなりに出る。
でも、その数字に何かを感じることは、やはりなかった。
曲が終わる。
結果画面が出る。
その後ろから、聞き慣れた声がした。
「今日、少し荒いですね」
振り向かなくても分かる。
Serowだった。
「悪いか」
「悪いというか」
少し考えてから、Serowは言う。
「気分が、前に出てる感じです」
Shadowは水のボトルを取って、キャップを開ける。
一口飲んでから、ようやくそちらを見た。
「分かるのか」
「たぶん」
たぶん。
その便利な言葉を、最近はもう笑わなくなっていた。
Serowは前と同じように、近すぎない位置に立っている。
でも、前より遠くない。
その距離の詰まり方が、妙に自然だった。
「何かあったんですか」
「別に」
「その別には、だいたい何かありますよね」
言い方が柔らかいわりに、引かない。
Shadowは小さく息を吐いた。
「面倒なとこだけ育つな、お前」
「褒めてます?」
「違う」
Serowは少しだけ笑う。
その笑い方を見て、Shadowは何となくもう一曲やる気をなくした。
筐体から離れる。
壁際へ寄る。
自販機の横。
人の流れから半歩だけ外れた場所。
Serowもついてくるが、やはり一歩分は空けたままだった。
その空け方が、ありがたかった。
しばらく無言が続く。
ゲームセンターでは、黙っていても会話が止まった感じにならない。
周囲が勝手に埋めてくれるからだ。
そのことに、Shadowは昔から少し助けられていた。
「……やめたんですか」
Serowが唐突に言った。
Shadowは視線だけ向ける。
「何を」
「音楽」
真正面から来たな、とShadowは思う。
避け道を作る訊き方ではなかった。
だからといって責めているわけでもない。
ただ、そこにあると知ってしまったものを、そのまま置いておけない顔だった。
「やめた、っていうか」
言いかけて、止まる。
自分でも、その言葉がしっくり来ない。
やめた。
離れた。
逃げた。
置いた。
どれも少しずつ違う。
Serowは急かさない。
それでShadowは、珍しく続きを口にした。
「近づかなかった、の方が近い」
Serowの目が少しだけ動く。
聞き返しはしない。
その代わり、続きを待っている。
Shadowは壁にもたれて、視線を少し上へ逃がした。
天井の照明は白くて、冷たくて、どこまでも店の色だった。
「叩けなくなったわけじゃない」
小さく言う。
「むしろ逆だ。やれば、たぶん今でもそれなりに叩ける」
そこまで言ってから、口元が少しだけ歪む。
「だから面倒だった」
Serowは黙っている。
「できるのに、前みたいにはならない。
前みたいにしたくても、同じ理由では鳴らせない。
そういうのが、一番面倒なんだよ」
その言葉を出した瞬間、Shadowは少しだけ後悔した。
言いすぎた気もするし、足りない気もする。
中途半端に開けるくらいなら、黙っていた方がよかったかもしれない。
だがSerowは、安い慰めを返さなかった。
「前みたい、じゃないと駄目ですか」
静かな声だった。
Shadowはすぐには答えない。
駄目かどうか。
その問いは、ずっと自分でも避けてきた。
Soilがいた頃の音。
Oracleが組んでいた構造。
自分が叩いていた理由。
あの形を知ってしまったあとで、別の何かを鳴らすことは、裏切りなのか。
それとも、そう思っていた自分の方が止まっているだけなのか。
「分からない」
結局、そう言うしかなかった。
「でも」
Shadowは続ける。
「前の形を知ってると、違うものを始めるたびに、比較になる」
Serowはわずかにうつむいた。
たぶん、自分にはまだそこまでの過去がない、と感じたのだろう。
始まっていない人間には、失った形もまだない。
それでも彼は逃げなかった。
「比較になるのは、仕方ないと思います」
Shadowは少しだけ眉を動かす。
「でも、それで止まったままだと」
Serowは慎重に言葉を選ぶ。
「たぶん、前のものだけがずっと大きくなるじゃないですか」
その一言に、Shadowは返せなかった。
うるさい場所のはずなのに、その言葉だけ妙にまっすぐ入ってくる。
前のものだけが大きくなる。
たしかにそうだった。
触らない。
戻らない。
思い出さない。
そうやって避けているつもりで、実際にはずっとそこを中心に回っていた。
離れたのではなく、離れきれないまま周回していただけだ。
Serowは、そこまで言ってから少しだけ困ったように笑う。
「すみません。分かったふうなこと言いました」
「……いや」
Shadowは短く首を振る。
「お前、そういうとこあるな」
「ありますか」
「ある。変に核心だけ触る」
「嫌でした?」
「嫌なら、とっくに帰ってる」
それはほとんど肯定だった。
Serowも気づいたらしく、少しだけ目を細める。
「じゃあ、少しだけよかったです」
「調子に乗るな」
「はい」
そう返事をしながらも、口元は少し笑っていた。
また少し、沈黙が落ちる。
今度の沈黙はさっきより硬くない。
何かを言い終えたあとの沈黙だ。
空白ではなく、置かれたものの輪郭を互いに確かめている時間に近い。
Shadowは自分でも不思議に思う。
何でこんな話をしたのか。
相手はただの、ゲームセンターで何度か顔を合わせた少年だ。
過去を知っているわけでもない。
Soilのことも、Oracleのことも、何も知らない。
それでも、何も知らないからこそ言えたのかもしれなかった。
「お前は」
Shadowが言う。
「はい」
「まだ何も始めてない顔してるくせに、たまにもう始まりかけてる顔するな」
Serowは一瞬だけ固まる。
すぐにごまかすように視線を逸らした。
「何ですか、それ」
「そのままだ」
「分かりにくいです」
「じゃあいい」
Shadowはそれ以上追わない。
Serowも、追及されないことに少しだけ助けられた顔をした。
黒いケースのことは、まだ言わない。
楽器店に通ったことも。
部屋で不格好な一音を重ねていることも。
まだ自分の中で固まりきっていないものを、言葉にした瞬間に安くしたくなかった。
その気持ちは、Shadowにも何となく分かった。
「また来ますか」
帰り際、Serowが訊く。
Shadowは少し考えてから答える。
「たぶんな」
「じゃあ僕も、たぶん」
「便利だな、その言葉」
「まだ、ちょうどいいんです」
Shadowは小さく息を吐く。
呆れたようでいて、前ほど突き放した感じではなかった。
「そのうち便利じゃなくなる」
「そうなったら?」
「言い切るしかないだろ」
Serowはその言葉を、妙に静かに受け取った。
はい、とも、そうですね、とも言わない。
ただ小さく頷く。
たぶん今のは、ゲームセンターに来るかどうかの話だけじゃない。
Serowも分かっている。
Shadowも分かっている。
でも、まだそこまででいい。
始まりというのは、だいたいこういう曖昧さの中にある。
まだ言い切れない。
まだ名乗れない。
まだ誰にも明かしていない。
それでも、もう前の場所には完全には戻れない。
Serowが去ったあと、Shadowはひとりでしばらく立っていた。
店内はいつも通りうるさい。
画面は点滅し続ける。
誰かがまた筐体を叩いている。
反復の箱は何も変わっていない。
それなのに、自分の中では少しだけ違っていた。
音楽から離れていた輪郭を、ほんの少しだけ言葉にしてしまった。
それは再起でも決意でもない。
ただ、自分がどう止まっていたのかを、初めて少しだけ外へ出しただけだ。
その程度のこと。
でも、その程度のことが、止まった時間を動かし始めることがある。
Shadowは最後に一度だけ筐体の方を見て、それから店を出た。
夜風は少し冷たい。
新宿の雑踏は相変わらず落ち着かない。
けれど、耳の奥にはまだ、さっきの言葉が残っている。
前のものだけが、ずっと大きくなる。
たしかにそうだ、とShadowは思う。
そして、その大きさを知ったままでも、別の何かへ手を伸ばす人間がいることも、
もう知っている。
ゲームセンターの少年。
まだ何も言い切らないまま、少しずつそちらへ向いているやつ。
ああいう始まり方も、あるのかもしれない。