Aria と再び会ったのは、数日後だった。
偶然と言えば偶然だった。
けれど Oracle には、完全な偶然という気が少しだけしなかった。
あの夜、一度だけ音に触れて、変だと言って、もう一曲を要求して、
それで終わるような人には見えなかったからだ。
新宿の夜はいつも通り雑だった。
光が多い。
人が多い。
音も多い。
誰かの笑い声、信号の電子音、遠くの低音、店先から漏れる宣伝、足音、会話。
全部が折り重なっているのに、その真ん中で一人だけ静かに立っている人間は、かえって目立つ。
Aria は、前と同じように迷いのない顔でこちらへ来た。
今日もまっすぐだった。
服装も歩き方も視線も、あまり日本の夜に馴染もうとしていない。
馴染めていない、というより、最初から無理に合わせる気がないように見える。
Oracle は演奏前の機材確認をしていた手を止める。
「……また来た」
aria は少しだけ肩をすくめた。
「You sound disappointed.」(がっがりしたように聞こえる)
「してない」
「A little。」
「してないって」
その返しに、Aria は小さく笑った。
笑うと少しだけ年相応に見える。
けれど、黙っている時はもっと掴みにくい。
明るいのか、冷たいのか、優しいのか、雑なのか、その全部が半端に混ざっている。
「今日は stop しないの」
Oracle が言うと、Aria は首を傾げた。
「Stop?」
「この前みたいに、通り過ぎる途中で止まるとか」
「ああ」
少し考えてから、Aria は言う。
「Today I came to stop. 最初から」
Oracle はその言い方に、少しだけ息を詰めた。
その英語は難しくない。
けれど、日本語に直すと少しだけ温度が変わる。
最初から立ち止まりに来た。
たぶん、そういう意味だ。
「……変な言い方」
「そう?」
「そう」
Aria は気にした様子もなく、ケースの近くへしゃがみ込む。
前回より距離が近い。
しかも、前より自然だった。
「Play.」
「まだ始めてない」
「Then start.」
その言い方があまりにも当然で、Oracle は思わず笑いそうになる。
「命令口調だね」
「Japanese polite is difficult」(丁寧な日本語難しい)
「それは分かる」
「Too many soft words...回りすぎる」(言葉が優しすぎる)
その一言に、Oracle は少しだけ目を細めた。
回りすぎる。
たしかに、日本語にはそういうところがある。
柔らかくする。
濁す。
含ませる。
角をなくす。
それが優しさになることもあるけれど、時々、輪郭まで曖昧にしてしまう。
「英語は回らないの」
「回らない」
Aria は即答した。
「刺さる時は刺さる。でもその方が早い」
Oracle は何となく、その言葉を自分の中で転がす。
早い。
たしかに aria の言葉は早い。
撫でる前に届く。
整える前に入ってくる。
だから少しだけ痛い。
その代わり、分かったふりの優しさよりは、ずっと信用できる気もした。
「じゃあ今日は、何て言うの」
Oracle が半分冗談で訊くと、Aria は少し黙った。
それから、前回より少しだけ慎重に日本語を選ぶ。
「……聴きに来た」
「うん」
「でも」
ここで aAia は少し眉を寄せた。
探している。日本語を。ぴったり来る形を。
「just listening だけじゃない」
「じゃあ?」
「Check.」
Oracle は一瞬、意味を取り損ねる。
「確認?」
「うん」
Aria は視線を逸らさずに続けた。
「この前、あなた、少し変わった顔したから」
「顔?」
「Sound too. でも first は face」
Oracle は少しだけ黙る。
自分では分からない。
けれど、あの夜に何かが少しずれたことは、たしかに自覚がある。
ずれた、というより、閉じ方が少し変わった。
「そんなに分かりやすかった?」
「A little」
「またそれ」
「でも enough」
少しだけ間。
Oracle は機材のスイッチを入れながら、低く言う。
「……何を確認するの」
Aria は今度は迷わず答えた。
「still there かどうか」
「何が」
「あなたの音」
その言葉に、Oracle の手がほんの少し止まる。
still there。
まだそこにあるかどうか。
消えていないかどうか。
なくしていないかどうか。
日本語なら、もっと別の言い方がいくらでもある。
でも aria はそう言った。
そこで Oracle は、たぶんこの人が自分に向けているものが、同情ではないと改めて知る。
かわいそう、ではない。
頑張って、でもない。
救ってあげたい、でもない。
ただ、まだそこにあるのかを見に来ている。
それは奇妙に、救いに近かった。
「……あるよ」
Oracle は小さく言う。
「たぶん」
Aria はすぐに頷かない。
少しだけ見て、それから言う。
「じゃあ、聴く」
Oracle はそのまま演奏を始めた。
最初の一音が夜へ落ちる。
前より少しだけ開いている。
でも、まだ怖い。まだ未完成だ。
まだ誰かへ向けて投げるには危うい。
そんな音だった。
Aria は途中で口を挟まない。
黙って聴いている。前回のように「変」とも言わない。
最後まで、ただ聴く。
その沈黙が、Oracle には前回より重かった。
言葉がないぶん、逃げ場がない。
一曲終わる。
街の音が戻る。
aria はしばらく何も言わなかった。
そのあとで、静かに口を開く。
「Better」
Oracle は目を上げる。
「前より?」
「うん」
「どこが」
「前は、閉じながら鳴ってた」
Aria は自分の胸の前で手をすぼめる。
「Now...」
少し迷ってから、英語へ戻った。
「Now it goes out once.ちゃんと外に出る。でも still afraid」
(一度だけ音を出す。でもまだ怖い)
Oracle は、その説明に少し驚く。
雑に見えて、ちゃんと聴いている。
しかも感覚だけで言っているようでいて、触れている場所が妙に正確だ。
「怖いのも分かるんだ」
「I know the sound of holding back.」(抑え込む音ってあるね)
その一言だけ、英語で強く落ちた。
Oracle は、そこで初めて少しだけ aria のことを見直す。
いや、見直すというより、この人にもたぶん何かあるのだと気づく。
ただ明るくて、ただ真っ直ぐで、ただ言葉が雑なだけの人ではない。
抑え込んだ音の気配を知っている人の言い方だった。
「……あなたも?」
Oracle が訊くと、aria は一瞬だけ視線を横へ流した。
「Maybe」
それだけ言う。
それ以上は出さない。
その閉じ方が、少しだけ Oracle に似ていた。
「日本語、逃げたね」
Oracle が言うと、Aria は少しだけ笑う。
「English is faster when I don't want to explain」
(説明したくないときは英語のほうが速い)
「正直だね」
「You too」
その返しに、Oracle は不意を突かれたように黙る。
自分が正直。
そう言われることは、あまりなかった。
むしろ構造で隠す側だ。
言葉を並べる前に、配置してしまう。
正面から感情を出す方ではない。
けれど、Aria はたぶん、そういう部分まで見ている。
「もう一曲」
aria が言う。
「今日は、そのために来たから」
その言葉には、前回よりはっきりした熱があった。
聴きたくて来た。
そして、もう一曲を要求する。
Oracle は小さく息を吐く。
「ほんとに遠慮ないね」
「いる?」
「時と場合による」
「今はいらないでしょ」
その即答に、Oracle はとうとう少し笑った。
そうかもしれない、と思う。
少なくとも今は、回り込んだ優しさより、こういう雑なまっすぐさの方がいい。
二曲目を始める。
今度は少しだけ違う。
Aria がそこにいることを、音のどこかがもう知っている。
前より少し外へ出る。
でも、まだ完全ではない。
その不完全さごと、夜へ置いていくような演奏だった。
聴き終わったあと、Aria は少しだけ長く黙っていた。
「……ねえ」
と、珍しく日本語だけで言う。
「あなた、ほんとは人のために組む人でしょ」
Oracle は、そこで本当に手を止めた。
その言葉は、まっすぐ過ぎた。
自分でも分かっている。
歌えないわけではない。
前に立てないわけでもない。
でも、本質はそこではない。
音を置く。
意味を繋ぐ。
ばらばらのものへ流れを与える。
自分はそういう人間だ。
それを、Aria はたった二度聴いただけで言う。
「……何でそう思うの」
「歌ってるけど、歌の人だけじゃない」
「雑だね」
「でも合ってる」
「……合ってる」
認めた瞬間、何かが少しだけ外れた気がした。
路上に立ってからずっと、自分は一人で鳴らしている。
一人で全部やるしかないと思っていた。
そうしないと残れないと思っていた。
けれど、それは生き延びるための形であって、自分の本来の形ではなかったのかもしれない。
Aria はそのまま言う。
「一人でもできる。でも、一人用じゃない sound ある」
Oracle は、返事をしなかった。
できなかった、の方が近い。
その言葉は痛かった。
でも、痛いぶんだけ正しかった。
一人用じゃない音。
そんなものを、自分はずっと一人で抱えていたのかもしれない。
街の雑音が流れる。
誰かが横を通る。
信号が変わる。
遠くでサイレンが鳴る。
その全部の中で、二人だけの会話は妙に静かだった。
Aria が立ち上がる。
「また来る」
「断言するんだ」
「うん」
「便利なたぶんは?」
「今日はいらない」
その返しに、Oracle は少しだけ目を細めた。
前に誰かにも似たようなことを言われた気がしたが、今は思い出さない方がよかった。
「今度は、名前くらい聞いていい?」
Oracle が言うと、Aria は一瞬だけ止まってから答えた。
「Aria」
「本名?」
「半分くらい」
「何それ」
「長い話」
それから、少しだけ顎を上げる。
「You?」
「Oracle」
「本名じゃないね」
「お互い様でしょ」
「うん。 fair」
Aria はそう言って、今度こそ歩き出す。
人混みの中へ消えていく背中は、やはり少しだけこの街と噛み合っていない。
でも、その噛み合わなさが、かえって夜の輪郭を変えてしまった気がした。
Oracle は一人残って、しばらく何も弾かなかった。
Aria。
その名前を、頭の中で小さく繰り返す。
まだ何者か分からない。
でも、自分の音の閉じ方を見て、一人用じゃないと言い切る人間が、少なくとも今ここにいた。
それだけで、夜の形は少し変わる。
自分の中に残っていた音が、誰かに触れて、少しだけ戻ってくる。
Nomad が言ったことを、ふと思い出しそうになるが、今はまだ言葉にしたくなかった。
ただ一つだけ、前よりはっきりしたことがある。
あの人は、たぶんもう一度来る。
そして自分は、その時を少しだけ待っている。