その夜、Nomad は最初から少しだけ機嫌が悪かった。
正確には、苛立っていたわけではない。
ただ、待つ段階はもう過ぎている、と感じていた。
Oracle は変わり始めている。
Aria もまた、ただの通りすがりではなくなっている。
それはもう何度も見た。
路上で。
会話の間で。
音の閉じ方と開き方の変化で。
そして Nomad は、Oracle 本人からも聞いていた。
まだ誰にも聴かせていない断片。
完成していない曲。
歌詞も途中。
構造も仮。
だが、最初から「誰が歌うか」だけは、妙に輪郭がある曲。
Oracle はその話をした時、名指しはしなかった。
けれど Nomad には分かった。
いや、分かってしまった。
その曲は、もう Aria に向いていた。
本人が認めるかは別として。
だから Nomad は、その夜、いつもの位置で見ながら少しだけ思っていた。
路上では足りない。
足りない、というのは、音量や機材の話ではない。
この二人は路上でも成立する。
むしろ、路上だから成立している部分もある。
だが、それだけで終わらせるには、もう噛み合いすぎていた。
Oracle は音を一人で持つには重すぎる場所まで来ている。
Aria はまだ自分がどこへ入るか決めていない。
その曖昧さのまま、何度も路上で会って、少しずつ近づいて、
それで自然に何かが起きるのを待つ。
そういうやり方もある。
だが Nomad は、そういう待ち方を今夜は選ばなかった。
Oracle が一曲を終えたところで、Nomad は歩道の端から出た。
Oracle が視線を上げる。
少しだけ嫌そうな顔をした。
「いたんだ」
「いた」
「何」
「来い」
それだけ言う。
Oracle は即座に眉を寄せる。
「何それ」
「箱」
「は?」
「空いてる。今から」
横で Aria が、面白そうに Nomad と Oracle を見比べている。
まだ状況が分かっていない顔だ。
「ちょっと待って」
Oracle が言う。
「話が飛んでる」
「飛ばしてる」
「何で」
「遅いから」
その返しに、Oracle が露骨に嫌な顔をする。
Aria はそこで小さく笑った。
「I like him a little.」
「やめて」
「面白いから」
「最悪」
Nomad はそのやり取りを無視して続ける。
「このまま路上で何回確認しても同じだ」
「同じじゃない」
「違う。だから箱に入る」
「何でそうなるの」
「鳴らせば分かる」
Oracle はそこで黙る。
その言葉が一番効くと、自分でも分かっている顔だった。
Aria が Nomad を見る。
「Box? Live house?」
「うん」
「Now?」
「今」
「Why me?」
その問いに、Nomad は短く答えた。
「音を聞いた」
「どっちの」
「君のも、こいつのも」
Aria の表情が少しだけ変わる。
さっきまで少し面白がっていた顔から、ほんの少しだけ観測する顔へ戻る。
「You saw me play?」
「インストの日」
「……where」
「西口側の細い通り。手すりのあるとこ」
Aria は一瞬だけ目を細めた。
思い当たったらしい。
「Creepy」
「よく言われる」
「Really?」
「たまに」
そのやり取りに、Oracle が呆れたように息を吐く。
でも、もう完全に拒否する顔ではなかった。
Nomad はさらに一歩だけ踏み込む。
「Oracle」
「何」
「この前話してた曲、あるだろ」
Oracle の肩が、ほんの少しだけ止まる。
Aria はその変化を見逃さなかったらしく、視線だけで Oracle を見る。
「曲?」
小さく訊く。
Oracle はすぐに答えない。
代わりに、Nomad を軽く睨む。
「言う必要ある?」
「ある」
「何で」
「もう君の中では、路上の遊びじゃなくなってる」
その言葉は静かだった。
だからこそ、余計に逃げ場がない。
Oracle は目を逸らす。
路上の雑踏が、妙に遠く聞こえる。
「……まだ途中だよ」
ようやくそう言う。
「歌詞も、構成も、ちゃんとしてない」
「でも誰の声で鳴るかは、もう少し見えてる」
Nomad が返す。
今度は、Oracle が本気で嫌そうな顔をした。
Aria はその二人を見ていたが、そこで初めて少しだけ声音を落とした。
「Could it be me?」
直球だった。
Oracle は一瞬だけ、何も返せない。
否定するには遅すぎて、肯定するにはまだ剥き出しすぎる。
その沈黙自体が、かなり答えに近かった。
Aria は追い詰めるような顔はしなかった。
ただ、静かに続きを待っている。
説明を求めるのではなく、いま相手がどこまで言えるかを見ている顔だった。
「……歌わせるつもりで、少し書いた」
Oracle は低く言う。
「でも、まだ決めてない」
「決めてるだろ」
Nomad が言う。
「うるさい」
Aria は、そこで少しだけ息を吐いた。
驚いたようでもあり、困ったようでもあり、でも嫌ではなさそうな、曖昧な表情だった。
「You are both too fast and too late.」(二人とも早すぎて遅すぎる)
「何それ」
Oracle が言う。
「Both」
Nomad は少しだけ口元を動かした。
笑ったというほどではない。
だが、否定もしない。
「とにかく来い」
もう一度言う。
「箱は近い。今日は空いてる。ステージも使える」
「いや、普通そんな急に」
「急じゃない。遅い」
「さっきからそればっか」
「事実だから」
Oracle は額を押さえたくなる衝動をこらえている顔をした。
Aria は少しだけ首を傾げる。
「If we go」
と、英語で切り出す。
「what do you want?」
Nomad は、ほとんど迷わず答えた。
「一回だけ、ちゃんと同じ空間で鳴らせ」
「セッション?」
「そう」
「準備してない」
Oracle が言う。
「してなくていい」
「よくない」
「準備したら、君はたぶん組みすぎる」
「……何その言い方」
Nomad はそこで少しだけ柔らかく続けた。
「今、必要なのは完成じゃない。
噛み合うかどうかだ」
その一言で、二人とも少し黙った。
Oracle は分かっている。
Aria もたぶん、分かっている。
今ここで見られているのは、技術でも完成度でもない。
この二人が同じ箱の中で鳴った時、路上で起きていたあの共鳴が、
偶然ではなく構造になるかどうか。
Nomad はそこを見たいのだ。
そして、たぶん Oracle 自身も、本当はもう少し前から見たかった。
「……強引だね」
Oracle がようやく言う。
「知ってる」
Nomad が返す。
「あなた、いつもこうなの?」
Aria が訊く。
「必要な時だけ」
「今日は必要?」
「かなり」
Aria は少しだけ笑う。
その笑い方は、路上で見せるものと少し違った。
面白がっているだけではない。
何かが動く前の、少しだけ緊張した笑い方だった。
「I don't like being dragged.」(引きづられるのは好きじゃない)
「分かる」
Nomad が言う。
「でも来るだろ」
Aria は少しだけ間を置いてから答えた。
「……Maybe.」
Oracle がその “Maybe” に反応して、少し笑った。
「今日は使っていい日なんでしょ」
Aria は肩をすくめる。
「今日は最後の日かも」
「何それ」
「Maybe is ending」
その言い方が妙に良くて、Oracle はもう一度笑いそうになる。
同時に、少しだけ腹を括るような感覚もあった。
Nomad は二人の顔を順番に見て、短く言った。
「十分だ。片づけろ」
「決定なんだ」
Oracle が呆れたように言う。
「今さら違うって言うか?」
「……言わない」
「君は?」
Nomad が Aria に向ける。
Aria は少しだけ考えて、それからギターケースに手をかけた。
「One session.」
「それでいい」
Nomad が言う。
Oracle は機材を片づけながら、心の中で何度か同じことを繰り返していた。
急すぎる。
強引すぎる。
準備がない。
まだ途中だ。
曲も、言葉も、何も固まっていない。
けれど、その全部の下に、もっと小さくて正直な感覚がある。
行きたい。
それを自覚した瞬間、Oracle は少しだけ諦めた。
たぶん、今夜はもう路上だけでは終われない。
人混みの中を三人で歩き出す。
Nomad が先。
Oracle と Aria が少し後ろ。
ライブハウスまでは遠くない。
いつもなら一人で入る道を、今夜は二人連れて歩いている。
Oracle は横目で Aria を見る。
Aria も少しだけ緊張しているように見えた。
でも、引き返す顔ではない。
「怖い?」
Oracle が小さく訊く。
Aria は少しだけ笑って答える。
「A little. You?」
Oracle もすぐには否定しなかった。
「少し」
その短いやり取りだけで、妙に十分だった。
この先で何が起きるのか、まだ分からない。
噛み合うのか。
ズレるのか。
ただ『気まずさだけで』で終わるのか。
それとも、本当に何かが始まるのか。
でも少なくとも、今夜そこへ行く理由はもうある。
Nomad は振り返らない。
振り返らないまま、ただ前へ歩く。
あの男はたぶん、もう半分くらい確信している。
だから強引なのだ。
新宿の雑踏を抜け、階段のある細い通りへ入る。
見慣れた看板。
少し古いビル。
地下へ続く入口。
Oracle にとっては常連の箱。
Aria にとっては、まだ名前もない扉。
今夜、そこに二人の音が入る。
そしてたぶん、路上ではまだ曖昧だったものの輪郭が、初めて少しだけ現実になる。