Real 第10話『語らず近づく』


Aria と三度目に会った夜、Oracle は自分でも少しおかしいと思った。

待っていたわけではない。
少なくとも、そう言い切れるつもりだった。
いつも通り機材を出して、いつも通りケーブルを繋いで、
アンプの出力を確認して、足元の配置を直して。
やることは同じだ。
何も変わらない。
そういう顔で準備していたはずなのに、通行人の流れの中に黒髪の女を見つけた瞬間、
胸のどこかが先に反応した。

来た、と思った。

その思考の早さに、少しだけ腹が立つ。

Aria は前と同じように、馴染むでもなく、浮くでもなく、妙な自然さでこちらへ歩いてきた。
新宿の夜景の中にいるのに、この街の作法を完全には受け入れていない感じが、
相変わらずだった。

「また来た」

Oracle が言うと、Aria はすぐ答える。

「You sound less surprised today.」(今日はあまり驚いている感じじゃないね)
「三回目だからね」
「So you were counting.」(てことは数えていたんだね)
「そっちこそ来すぎ」
「Maybe.」(かもね)

その “Maybe” は、前ほど逃げて聞こえなかった。
むしろ、認めた上で少し濁したような言い方だった。

Aria は手すりの近くへ座る。
前よりもっと自然に。
最初からそこが自分の位置だと知っているみたいに。

「今日は歌わないの」
Aria が言う。

Oracle は小さく眉を動かす。

「いきなりそこ?」
「歌うかどうか、たぶん先に決めてる」

Oracle は少し黙った。図星だった。

曲による、という言い方もできる。
喉の調子、気分、通行人の量、警備の目、その日の空気。
理由はいくらでも作れる。
でも実際には、最初の数分で決めている。
今夜、自分の声まで外へ出すかどうかを。

「……今日は、まだ決めてない」
そう答えると、Aria は頷いた。

「じゃあ、まだいい」
「何が」
「決めなくていい」

その返しに、Oracle は少しだけ助かった気がした。
歌えと言われるかと思った。
あるいは、歌わない方がいいと断言されるかと。
でも Aria はどちらでもなく、決めなくていいと言った。

それは、妙に正しかった。

「あなたは、今日も弾かないの」
Oracle が訊くと、Aria は少しだけ笑う。

「Why, want to hear?」(聞きたいの?)
「質問に質問で返すんだ」
「Yes or no?」
「……聴きたいかも」

Aria の目が少しだけ細くなる。
勝った、という顔ではない。
でも、確かに何かを受け取った顔だった。

「Maybe later」(そのうちね)
「便利だね、その言葉」
「今日は使っていい日」

Oracle はわずかに笑う。
こんな軽い会話をしているのに、どこかではずっと互いの様子を測っている。
距離を詰めすぎないまま、どこまで触れていいか探っている。
その感じが、少しだけ心地よかった。

演奏を始める。

今夜の一曲目はインストにした。
歌を入れないと決めたわけではない。
ただ、最初の一歩としてはその方が自然に思えた。

Aria は黙って聴いている。
前より、聴き方が深い。
何を考えているのかは分からない。
でも、耳だけではなく、その人全体で受けている感じがある。

一曲終わる。

「今日は、少し違う」

Aria が先に言った。

「前も言った」
「今日は more clear」
「何が」
「迷ってる場所」

Oracle はケースの縁に手を置いたまま、視線だけ上げる。

「分かるの」
「うん。
今日は閉じてるんじゃなくて、choose しようとしてる」

その言葉に、Oracle は少しだけ言い返せなくなる。
閉じているのではなく、選ぼうとしている。
確かにそうかもしれない。

前までは、ただ閉じるしかなかった。
出さない。
触らせない。
内側で止める。
それしか方法がなかった。

でも今は違う。
少しだけ外に出す。
どこまでなら出せるか。
誰に向けるか。
何を残すか。
選ぼうとしている。

「……あなた、雑なのに時々変に正確だね」
Oracle が言うと、Aria は肩をすくめた。

「雑だから見えることもある」
「どういう理屈」
「Too much thinking makes blur.」(考えすぎると、ぼやける)

その言い方に、Oracle は少しだけ息を吐く。

「刺さるなあ」
「Sorry」
「謝ってない顔してる」
「少ししか」

Aria の日本語はまだ拙い。
語尾の柔らかさも足りない。
でも、だからこそ曖昧なところへ逃げない。
時々それが、Oracle の中の整理しきれない部分を、そのまま照らしてしまう。

「あなたは」

Oracle が少し考えてから言う。

「自分のこと、あんまり話さないね」
Aria はすぐには答えなかった。
視線が人混みの方へ流れる。
光る看板。
流れていく人影。
夜の街が勝手に会話の隙間を埋めている。

「I talk enough.」(よく話すじゃない)
ようやくそう言う。

「そういう意味じゃなくて」
Oracle は少し苦笑した。
「説明しないって意味」
「……ah」

今度はちゃんと通じたらしい。
Aria は小さく頷いて、それから低く言った。

「You too.」(あなたも)

Oracle は返事をしなかった。
否定できないからだ。

説明しない。
たしかにそうだ。
喪失についても、Soil のことも、前に立たされたことも、歌う側に回ったことも、全部。
必要なら話せる。言葉にしようと思えばできる。
でも、自分から説明する気にはなれない。

説明した瞬間に、何かが固定される気がする。
まだ自分の中で流動しているものまで、「こういうことです」と整えられてしまうのが嫌だった。

Aria も、たぶん同じ種類の黙り方をする。

明るい顔もする。
遠慮のない言い方もする。
でも、本当に触れられたくないところまで来ると、英語へ逃がすか、短く切るか、
そのまま置いていく。
説明しないことを選ぶ人間の沈黙だった。

「英語になる時あるよね」
Oracle が言う。
「感情が強い時」

Aria は少しだけ目を細める。

「Japanese is slow when it hurts」
「痛いと遅い?」
「うん。
探してるうちに、もう言いたくなくなる」

Oracle は、その感覚が少し分かった。
日本語は柔らかい。
でも柔らかいぶん、感情を包むのに向いていて、
そのままの温度で出すには少し遠回りになる時がある。

「じゃあ英語だと早いの」
「早い。でも sharp too much」

その “sharp” の言い方だけ、少しだけ硬かった。
ただの言語の話ではない。
もっと実感に近い響きがあった。

Oracle は、そこで無理に先を訊かなかった。

何があったのか。
何が sharp なのか。
どうして歌わない日があるのか。
どうしてインストだけで路上にいるのか。
訊こうと思えば訊ける。
でも今は、そこまで行かない方がいいと分かった。

代わりに、少しだけ違うことを訊く。

「この前、言ってたよね。
holding back の音が分かるって」

Aria は一瞬だけ黙った。
それから、珍しくすぐ英語に戻らず、日本語で答えようとした。

「……知ってるから」
短い返答。

「何を」
「そういう音」

そこまで言ってから、少しだけ首を振る。

「I don't want to make it a story yet.」

Oracle は、その英語を頭の中でゆっくり受け取る。
まだ、それを物語にしたくない。
たぶんそういう意味だった。

その言い方が、妙に好きだと思った。

説明したくない、ではなく。
隠したい、でもなく。
まだ物語にしたくない。

つまり、形にしてしまうには早い何かとして、ちゃんと持っているのだ。
それは Oracle 自身にもよく分かる感覚だった。

「……分かる」
小さく言うと、Aria が少しだけこちらを見た。

「Really?」
「うん。
話せないっていうより、まだ形にしたくない時ある」

その一言で、二人のあいだに少しだけ静かなものが置かれた。

共感と言うには大袈裟だ。
理解と言うには、まだ知らないことが多すぎる。
でも、説明しないことを、逃げじゃなく保留として持っている人間同士の、
最低限の了解のようなものはあった。

Aria が小さく息を吐く。

「Good」
「それだけ?」
「それだけで enough」

Oracle は笑う。
短い。
でも、本当に少しだけ軽かった。

「今日は弾かないの?」
もう一度、Oracle が訊く。

今度は Aria は少しだけ考えてから、自分のギターケースに手を置いた。

「少しだけ」

出して、膝の上に置く。
夜の光がボディの輪郭をなぞる。
アンプに繋ぐ。
足元は最小限。
準備に無駄がない。

「歌は?」
「No」
「今日はずっとインスト?」
「今日は、そう」

それから Aria は少しだけ視線を逸らして言う。

「Words get in the way sometimes.」(言葉が邪魔になる時がある)
それはさっきの話の続きでもあった。

Aria が最初の音を出す。

派手ではない。
でも、すぐに分かる。
この前まで想像していたより、ずっと輪郭がある。
歌っていないのに、意志の進む方向が見える。
音が前に出るというより、必要な場所へまっすぐ届く。

Oracle は思わず、その手元を見ていた。

上手い、という言葉では足りない。
音数が多いわけでもない。
技巧を見せるタイプでもない。
それなのに、触れた場所だけ空気の密度が少し変わる。

「……何それ」
曲が終わったあと、Oracle は半分呆れて言った。
「ずるいな」

Aria が少し笑う。

「What part?」
「歌ってないのに、歌ってるみたいなとこ」
「Ah」

Aria はそこで、ほんの少しだけ照れたように目を伏せる。

「That one, I like.」(あそこは好き)

その一言が、妙にまっすぐだった。
自分の音の、そういうところが好き。
ただそれだけ。
でも、その言い方には嘘がなかった。

Oracle は、その瞬間に少しだけ分かった気がした。
この人は、自分の中の全部を説明しない。
でも、音に関してだけは、説明より先に本音が出る。

「……あなた、歌わなくてもいいんだ」
Oracle が言うと、Aria はすぐ答える。

「歌ってもいい。でもギターだけの方が、嘘が少ない日もある」

その言葉に、Oracle はほんの少しだけ視線を落とした。

嘘が少ない。
分かってしまう。
声を乗せると守れる部分がある。
言葉を置くと形を作れる。
でも、楽器だけだと、その前のところが出る時がある。

「今日は、そっちの日なんだ」
「うん」

短いやり取り。
それだけなのに、もう前より深い場所へ触れていた。

夜は相変わらず騒がしい。
人は流れていく。
看板は光る。
店の宣伝は止まらない。
それでも、その歩道の端だけは少し別の時間みたいだった。

二人とも、まだ核心は話さない。
Soil のことも。
アメリカでのことも。
家のことも。
音楽からずれた時間のことも。
何も。

ただ、説明したくない部分があることだけは、前よりはっきり見えている。
そしてそれを、今はまだそのままでいいと思っている。

それが Oracle には、不思議なくらい安心できた。

Aria が片づけながら言う。

「Next time」
「うん」
「Maybe you sing」
「急に言うね」
「Maybe」

Oracle は少し笑う。

「そっちも maybe なんだ」
「今日は使っていい日だから」

その返しが少し可笑しくて、また笑ってしまう。
こんなふうに笑うのは、思っていたより久しぶりかもしれなかった。

Aria は立ち上がる。
帰る前に、一度だけ Oracle の方を見る。

「You don't have to explain too early.」(説明を早くする必要はないしね)

Oracle はその言葉に、すぐ返事をしなかった。
でも、胸のどこかが少しだけほどけるのを感じた。

「……そっちもね」
ようやく返すと、Aria は小さく頷く。

それで十分だった。

Aria が人混みの中へ消えたあとも、Oracle はしばらくその場を動かなかった。
アンプの電源はまだ入っている。
足元にはケーブル。
夜の風。
街の音。

今夜、自分は何かを打ち明けたわけではない。
相手もそうだ。
でも、話さないことを無理にほどかずにいられた。
そのこと自体が、たぶん少し大きい。

説明しないまま近づく。
そんなことが本当にあるのだと、今は少しだけ信じられる。
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