Real 第22話『最初の核と、』


夜はまだ浅かった。

新宿の雑踏は、いつものように人を押し流している。
誰かにとってはただの平日で、誰かにとっては少し気分のいい夜で、
そしてごく一部の人間にとってだけ、何かがもう前のままではいられなくなる夜だった。

Oracle と Nomad と Aria は、箱までには至らない、
けれど楽器を鳴らせる小さなリハーサル部屋にいた。

広くはない。
壁は薄い。
備え付けのアンプも、抜群にいいわけではない。
それでも、今日の三人には十分だった。

必要なのは、整った環境じゃない。
昨夜と今日話したことが、本当に音になるのか確かめる場所だった。

Oracle はキーボードの前に座りながら、小さく息を吐く。

昨日までなら、この場に来るだけで少し構えていたかもしれない。
Soil の不在。
前のマネージャーの言葉。
一人でやってきた時間。
それら全部が、指を鍵盤に置く前から重くのしかかっていたはずだ。

でも今日は少し違う。

重さがなくなったわけではない。
ただ、その重さを自分一人だけで持っている感じが、前より薄い。

Aria はギターを抱えて、まだアンプの音を探っている。
Nomad はベースを肩にかけたまま、二人の様子を見ていた。

最初に音を出したのは Oracle だった。

ごく短い和音。
箱で鳴らした時より、もっと整理された響き。
けれど、整えすぎてはいない。
まだ“完成させる”ためではなく、“開く”ための音だった。

Nomad は、その和音の下に低音を一本だけ通す。

支えるというより、位置を示す。
ここだ、と言うだけの音。
それだけで、部屋の重心が決まる。

Aria は少し遅れて、その隙間へ細いフレーズを置いた。
歌わない。
でも、歌が入れるだけの余白を最初から残す。

Oracle は、そこで一度だけ目を閉じる。

やはりそうだ、と思う。
この人の音は、先に余白を作ってしまう。
歌う前から、言葉の居場所だけが先に見えてしまう。
それが悔しくもあり、ありがたくもある。

「そこ」
と Nomad が低く言う。

Oracle は頷き、次の和音を少しだけ変える。
今度は明るいわけでも、暗いわけでもない。
進む気配だけを残した響き。

Aria が、その変化に合わせてフレーズを伸ばす。
一本だった線が、そこでようやく二本目へ触れた。

「いい」
Oracle は思わず小さく言う。

「まだ早い」
Nomad が返す。
「分かってる」
「でも悪くない」
Aria が混ぜる。

その “悪くない” が、Oracle には少し嬉しかった。
簡単に“いい”と言わない人たちだからだ。
だからこそ、その途中の肯定には意味がある。

三人は、そこから少しずつ音を重ねていく。

サビはまだない。
歌詞もない。
タイトルどころか、曲の全体像ですらまだぼやけている。
それでも一つだけ、はっきりしていることがあった。

これは追悼の曲じゃない。

Soil を置き去りにするわけではない。
でも、喪失の説明だけで閉じる曲でもない。
前を向く、と言うにはまだ少し痛い。
けれど、閉じ続けるわけにもいかない。
そういう線の上にある音だった。

Oracle は、ふと昨夜自分で口にした言葉を思い出す。

開く曲。

そうだ、と今なら分かる。
開くというのは、明るくすることじゃない。
救済を言い切ることでもない。
ただ、閉じた部屋の窓をほんの少しだけ開けるようなことだ。

今鳴っている音は、たぶんそのための核だった。

ーーー

その少し外側では、Serow が本当に黒いケースを持って立っていた。

自分で持ち出しておきながら、心臓のあたりが落ち着かない。
部屋で一人で触っている時とは全然違う。
人に見せるつもりではまだなかった。
なのに、Shadow に知られた時点で、もう“そのうち”は来る気がしていた。

待ち合わせ場所は人通りも多い西武新宿駅出入り口付近。
先にいたのは Shadow だった。

壁に寄りかかるみたいに立っていて、ケースを見た瞬間に眉が少しだけ動く。

「ほんとに持ってきたのか」
「言われたので」
「律儀だな」
「持ってこない方が変かなと思って」

Shadow はそれには答えず、ただケースを顎で示す。

「開けろ」
「ここでですか」
「ここでだ」

Serow は小さく息を呑んでから、ケースを下ろした。
ファスナーを開ける音だけが妙に大きく感じる。

中のギターが見えた瞬間、Shadow は数秒だけ黙った。

「……やっぱりそれか」
低く言う。
「変でした?」
「変ではない」
少し間。
「でも、お前ほんとに直感で行くな」

Serow は、それが褒め言葉なのかそうでないのか分からず、とりあえず黙る。

そこへ、少し遅れて Nomad が来た。

「見せるって聞いた」
第一声がそれだった。

「話早くないですか」
Serow が言うと、Shadow が横で鼻を鳴らす。

「俺が送った」
「ひどい」
「隠す気なかっただろ、もう」
「……少しはありました」

Nomad は二人のやり取りをほとんど無視して、ケースの中を覗く。
その視線には、冷たさではなく観察の癖があった。
「なるほど」
とだけ言う。

その一言がいちばん緊張する、と Serow は思った。
Shadow のツッコミの方がまだ呼吸ができる。
Nomad は、一言で核心に触れそうだからだ。

「何ですか、その“なるほど”」
Serow が思わず訊く。

Nomad は、ケースの中のギターと Serow の顔を交互に見てから言う。

「お前、自分で分かってないだろ」
「何をですか」
「選び方だ」
「好きだったからです」
「それだけじゃない」

Serow は黙る。
Nomad は続ける。

「昨日もそうだった。
お前は理屈の前に形を掴む。
で、そのあとで自分でも理由を探す」
少しだけ視線を細める。
「このギターもたぶんそうだ。
スペック表を読んで決めたんじゃない。
先に“これだ”が来たんだろ」

Serow は、返事ができなかった。
図星だったからだ。

楽器店で見た瞬間に、何かが先に決まっていた。
自分でも説明はできない。
でも、あれは確かに“欲しい”より先に“これだ”だった。

Shadow が横で言う。

「こういう買い方するの、危なっかしいけど嫌いじゃない」
「褒めてます?」
「半分」

Nomad は、そのやり取りのあとで静かに言う。

「悪くない」
「え」
「最初はそれでいい。
理屈で入りすぎると、最初に持ってた勘を潰す」

Serow は、その言葉を聞いて、胸の奥が少し熱くなる。
昨日から言われていたことが、今度は別の形で目の前に置かれた。

「ただし」
Nomad が続ける。
「その勘を、言い訳にはするな」
「……はい」
「選んだなら、弾け」
短い。
でも、十分すぎるほど重かった。

Shadow がそこで小さく笑う。

「逃げ道なくされたな」
「はい……」
「でもまあ」
Shadow は少しだけギターを見てから続ける。
「最初の一本としては、嫌いじゃない。
お前がそれ持つなら、妙に納得する」

その言葉は、Serow にとって思っていたよりずっと大きかった。
認められた、とはまだ言えない。
でも、否定もされなかった。
むしろ、少しだけ先を見てもらえた気がする。

ーーー

同じ夜、二つの場所で、それぞれ別の“最初”が進んでいた。

三人の部屋では、まだ名前のない曲が生まれ始めている。
完成はほど遠い。
けれど、その核だけはもう戻らない。
一人では書けなかった線が、三人の音のあいだで確かに形を持ち始めている。

もう一方では、Serow が隠していたものを、ついに他人の前へ出した。
まだ弾けない。
まだ入れない。
けれど、ケースの中身を見せた時点で、もう何も始まっていない人間ではいられない。

Oracle は構成を始めた。
Aria はその構成へ熱と余白を与えている。
Nomad は現実と音の両方で、形になる条件を整えている。
Shadow は戻りきらないまま、それでも外ではなくなりつつある。
Serow は、ようやく“持っているだけ”から一歩だけ先へ出た。

全部が同時ではない。
全部が綺麗でもない。
でも、それでいいと今は思える。

何かが始まる時は、たいていこんなふうに不揃いだ。
音が先に進む場所もある。
言葉が遅れて追いつく場所もある。
まだ見せただけの場所もある。
それでも、それぞれの点が前の日より確かに少しだけ動いている。

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