夜が明けても、前夜の音は誰の中でも消えていなかった。
ただ印象に残っている、という感じではない。
思い出そうとしなくても、身体のどこかがもう次を待っている。
約束したわけでもない。
けれど、あれが一度きりで終わるはずがないと、全員のどこかが知ってしまっていた。
昼前、Nomad は Oracle に短いメッセージを送った。
『話を進めたい。今日、時間あるか』
Oracle は、その通知を見て少しだけ笑った。
やはり来る。
むしろ来なければ、あの男ではない。
しかも、自分の方も同じことをしようとしていた。
前夜、駅で別れる前に、Aria とは番号も LINE も交換していた。
喫茶店でノートを開いた流れの中で、それはほとんど自然に起きた。
だから Oracle は、曲のこと、箱のこと、これからのことをどう言葉にするか、
朝から少し迷っていた。
まず Nomad に返す。
『ある。どうせ昨日の続きでしょ』
既読はすぐにつき、返ってきたのはたった一言だった。
『そうだ』
雑だな、と Oracle は思う。
でも、それで十分でもあった。
そのあとで、今度は Aria に送る。
『昨日の続き、少し話したい。曲のことも、これからのことも』
数分して、通知が鳴った。
『I want that too. 今日なら夕方から空けられる』
その返事を見て、Oracle は小さく息を吐いた。
思っていた以上に、嬉しかった。
ーーー
その頃、Serow は別の意味で落ち着かなかった。
前夜、飲み屋で Nomad に言われたことが、ずっと頭に残っている。
形を先に掴んでいる。
最初に持っていた勘を失うな。
焦るな。でも遅れるな。
あの言葉の続きを聞きたい。
自分は何を掴んでいたのか。
何が見えていたのか。
その先で、どう進めばいいのか。
だが、そこでようやく気づいた。
Nomad の連絡先を聞いていない。
「……最悪だ」
小さく呟いてから、Serow は結局 Shadow に連絡する。
Shadow なら知っていて当然だ。
しばらくして通話が繋がる。
「何」
出た瞬間の声は、やはり短い。
「すみません、急に」
Serow は少しだけ姿勢を正した。
「Nomad さんの連絡先、聞き忘れてて」
向こうで、一瞬だけ間が空く。
「……何で」
Shadow が言う。
「何でって?」
「何でお前が、Nomad の連絡先を欲しがるんだ」
その問いは自然だった。
自然すぎたからこそ、Serow は取り繕えなかった。
「昨日の話、もう少し聞きたくて」
正直に言う。
「あと、その」
Shadow は黙って待つ。
待たれると、余計にごまかしづらい。
「……ギター買ったんです」
電話の向こうで、完全な沈黙。
「お前」
Shadow の声が一段低くなる。
「今、何て言った」
「いや、その」
「買ったのか」
「……はい」
さらに少しの沈黙。
それから落ちてきたのは、意外なくらい真っ当な問いだった。
「何買った」
Serow は少し目を瞬かせる。
怒られると思っていた。
呆れられるかと思っていた。
けれど最初に来たのは、そこだった。
おずおずと機種名を口にする。
数秒後、Shadow は短く息を吐いた。
「何でそれ選んだ」
「え」
「最初の一本でそこ行くか普通」
「だ、駄目でした?」
「駄目じゃない」
Shadow は言う。
「でも、お前っぽいっていうか、妙に背伸びと直感が半々だな」
その言い方に、Serow は少しだけ救われた。
否定ではない。
ちゃんと受け取られている。
「……まだ全然弾けないですけど」
「弾けないのは知ってる」
「はい」
「で、Nomad と何話したいんだ」
「昨日のことです」
Serow は正直に言う。
「自分でよく分からないものを、あの人が見えてる感じがして」
向こうで、空気が少しだけ変わる。
Shadow は今、その言葉をちゃんと受け取っている。
「……分かった」
やがてそう言う。
「連絡先は後で送る」
「ありがとうございます」
「それと」
Shadow が付け足す。
「その件、たぶんもう俺しか知らない状態は終わったと思え」
「え」
「Nomad に話すんだろ」
「……はい」
「なら、そのうち全員に伝わる」
「うっ」
その “うっ” に、Shadow がほんの少しだけ笑った気配がした。
「まあ、買ったなら隠し切れん」
「怒ってます?」
「別に」
少し間。
「ただ、見せろとは思う」
その一言が、Serow には妙に嬉しかった。
ーーー
夕方、Oracle は Nomad と落ち合った。
場所は箱の近く。
Bump の店ではないが、自然とその周辺に足が向く。
Nomad は相変わらず、説明を省いた顔で立っていた。
「来たか」
「来るでしょ、そっちが呼んだんだから」
「Aria には」
「連絡した」
Oracle は言う。
「今日、あとで会う」
Nomad は小さく頷く。
その反応で、すでに半分くらいは読んでいたのだと分かる。
「で」
Oracle が言う。
「話を進めたいって?」
Nomad は無駄なく答える。
「昨日の音を、昨日で終わらせる気がない」
「私もない」
Oracle は迷わず返した。
その速さに、自分でも少し驚く。
でも、もう躊躇する段階ではないとも思っていた。
「Soil に引っ張られたまま、一人で路上やってるのはもう違う」
Oracle は続ける。
「忘れるとかじゃない。
でも、あの人の亡霊に縛られたままの形で止まるのは、たぶんもっと違う」
Nomad は黙って聞いている。
「Aria と」
Oracle は少しだけ息を整える。
「お前と。
ちゃんと組み直したいと思ってる」
その言葉を口にした時、胸の中で何かが静かに決まった。
それは思いつきではない。
昨夜の延長でもある。
だが、それだけでもない。
もっと前から少しずつ動いていたものを、ようやく認めた形だった。
Nomad は、その言葉にすぐには返事をしなかった。
数秒のあと、低く言う。
「やっと言ったな」
「うるさい」
「遅い」
「知ってる」
そこで Oracle のスマホが鳴る。
画面に表示された名前を見て、ほんの少しだけ表情が変わる。
前マネージャーだった。
「もしもし」
Oracle が出る。
相手はすぐ本題に入った。
「今どこにいるの」
少し張った声だった。
「Bump の店にいるの。近くなら今から話したい」
Oracle は一瞬だけ Nomad を見る。
Nomad も、もう内容を察している顔だった。
「近い」
Oracle は答える。
「じゃあ行く」
少し間。
「Nomad も一緒だけど」
「……いいわ。来て」
通話が切れる。
「行くぞ」
Nomad が言う。
Oracle は頷いた。
Bump の店に着くと、前マネージャーはすでに座っていた。
Bump も店の奥ではなく、今日は話の輪の中にいる。
Oracle が席に着く。
Nomad も隣へ座る。
空気は最初から軽くない。
前マネージャーは、短く息を整えてから口を開いた。
「あなたが新しい形を考えているのは聞いた」
視線は Oracle へ向いている。
「でも、今さら編成を変えるのは現実的じゃない」
そのまま続ける。
「デビュー直前だった。Soil の件があった。
それでも全部を潰さないために、Oracle を前に出した二人編成で整理しようとしていたの」
少しだけ声が硬くなる。
「そこへ新しい女性シンガーと、外から見ていたベーシスト。
Shadow の復帰だってまだ不確定でしょう。
熱だけで話を動かせる段階じゃない」
それは理解できる話だった。
感情で止めているわけではない。
実務として、現実として、今の再編成は危険に見える。
だからこそ、重い。
けれど Oracle は、前みたいには引かなかった。
「整理できてないです」
はっきりと言う。
「むしろ昨日の音を聞いて、あれを無視して一人に戻る方が不自然だと分かりました」
前マネージャーは、すぐには受け入れない。
「感情で決める話じゃない」
と言う。
「一度鳴ったからといって、継続できるとは限らない」
その通りだった。
正論だ。
だからこそ、場が止まりかける。
その時、口を挟んだのは Bump だった。
「口出しする立場じゃないのは分かってる」
前置きしてから、静かに言う。
「でも、昨日のあれを“たまたま一回鳴っただけ”で処理するのは、もったいないじゃなくて、
たぶん間違いです」
前マネージャーが難しい顔をする。
Bump は構わず続けた。
「俺は現場の人間です。
デビューの段取りとか、事務所の組み方とか、そっちはそっちで分かる。
でも箱の中で鳴ったものが、続くものか、続かないものかくらいは見てきた」
その声には、現場の重さがあった。
理屈だけではない。
何度も音の始まりと終わりを見てきた人間の実感だった。
「昨日のは、偶然じゃないです」
Bump は言う。
「偶然の顔はしてたけど、中身はもう違ってた。
あれを一回きりで潰したら、あとで皆たぶん後悔します」
Oracle は、その言葉を聞きながら少しだけ息を詰める。
自分たちだけがそう思っているわけではなかった。
外から見ても、やはりあれはそういう音だったのだ。
前マネージャーはしばらく黙っていた。
完全な納得ではない。
だが、最初の拒絶ほど固くもない。
Bump の言葉が、少なくとも「検討に値しない話」ではない位置まで持ち上げたのだと分かる。
「……正式に認めるには、まだ条件が必要です」
やがてそう言う。
「継続できる形が見えないと困る。
一回きりの熱じゃ駄目」
Bump は頷いた。
「それでいい」
と言う。
「じゃあ見せればいい。
一回じゃないってことを」
Nomad が、その横で静かに口を開く。
「見せる」
短い一言。
でも十分だった。
Oracle も頷く。
その目には、前みたいな揺れだけはもうなかった。
その夜、Oracle は改めて Aria と落ち合った。
今度は二人だけではない。
話すべきことは、もう少し具体的になっている。
喪失の共有ではなく、その先の形の話だ。
席につくと、Aria は二人の顔を見てすぐに空気を読んだ。
「Hard talk?」
と、小さく訊く。
「かなり」
Oracle が答える。
Nomad は短く言った。
「でも前に進んだ」
Aria はそれ以上は急かさない。
ただ、静かに待つ。
「ちゃんと言う」
Oracle は言う。
「私は、Soil の代わりを探したいわけじゃない。
前のバンドの続きのふりをしたいわけでもない。
でも、一人のまま閉じていたくもない」
Aria は頷く。
Nomad は黙って聞いている。
「だから再構成したい」
Oracle は続けた。
「忘れないまま、別の形で組み直したい」
その言葉を、今度は Aria も正面から受け取る。
「Replacementじゃない」
Aria が静かに言う。
「Rebuildでも少し違う」
Oracle が言う。
「うん」
Aria は少し考える。
「Re-structure.」
その言葉に、Nomad がわずかに目を上げる。
「それだな」
と、低く言う。
再構成。
組み直す。
前をなかったことにせず、それでも新しい構造として立ち上げる。
ようやく三人のあいだで、その言葉が同じ意味で置かれた。
「編成の話もする」
Nomad が言う。
「曖昧な熱のままにしない方がいい」
Oracle は少しだけ笑う。
「そういうとこ本当に容赦ない」
「今さらだろ」
そして初めて、三人は同じ席で具体的に話し始めた。
Nomad はベースとして入る。
Oracle は鍵盤。必要なら歌う。だが中心は構成。
Aria はギターと歌。だが最初から全部を背負う形ではなく、音の芯に触れる位置から入る。
「一曲目は」
Oracle が言う。
「追悼じゃなくていい」
その一言の重さを、三人ともきちんと受け取る。
「Soil を忘れるわけじゃない。でも最初の音を“喪失の説明”にしたくない。
そうするとまた、そこに閉じるから」
Aria は静かに頷いた。
「Open line」
と、小さく言う。
「うん」
Oracle はその言葉を受け取る。
「閉じた曲じゃなくて、開く曲」
Nomad はそこで、ようやく少しだけ口元を動かした。
「それでいい」
その夜のうちに、何かが正式に決まったわけではない。
契約もない。
発表もない。
バンド名すら、まだこの場では口にされなかった。
それでも、前の日までとは明らかに違うことが一つだけある。
もうこれは、偶然の延長ではない。
Oracle は、自分の中だけにあった断片を、外へ組み直す決意を言葉にした。
Nomad は、それを現実の形にする側へ一歩踏み込んだ。
Aria は、自分が一時的に触れただけの人ではなく、
この線の内側に入っていくことを受け入れ始めている。
Bump は、聞いてしまった音の責任を、自分の立場から引き受けた。
そしてその少し外側では、Serow がとうとう隠していた黒いケースの存在を、
Shadow に知られてしまった。
まだ散っている。
けれど、散ったままでは終わらない。
それぞれの点が、もう一度ちゃんと線になろうとしている。